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『サクラ・桜』
【悲恋 恋愛小説】

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『サクラ・桜』-1

 最近僕は暇さえあればあそこへ行く。殆ど日課のようなものだ。

 大学のキャンパスの端のほう、建物のそばにかくれるようにひっそりと一本だけ生えている枝垂桜。たった一人で、しかし凛とした表情でしっかりと根をはり、綺麗に咲き誇っている。近くの公園に群れるように生え、狂うように咲き乱れ、酒飲みの口実に利用された桜たちはもう散り始め、緑の部分が多くなっていたが、あの枝垂桜はいまが咲きごろで、まだしばらくはその美しい表情を見せていてくれるだろう。

 僕はその桜のある場所へ行く。キャンパスの端の目立たない場所なのでそこはいつも人気が無い。いるのは僕と、それともう一人だけ。そのヒトに会うために、僕はそこに行く。今日もだ。

 そのヒトは桜のそばにあるくたびれた古い木のベンチに腰掛けて穏やかな表情で桜を眺めていた。

「こんにちは。」

僕が挨拶をすると彼女はこちらを向いて柔和な笑みを浮かべた。

「こんにちは。」

僕はその隣に座った。静かに、できるだけ自然なふうに。

「今日も、いい天気ね。」

そう言って彼女は目を閉じ、ゆるやかに天を仰いだ。桜の花びらを透過してきた幾筋もの柔らかな薄桃色の光が彼女の顔の上でゆらゆらとゆれる。

 風がふくたびサラサラとゆれる、背中の中ほどまであるまっすぐの黒髪。ふわりと肩にかけた、咲いている桜の花と同じ色のショールがよく似合う。袖からひかえめに出ている細い腕は驚くほど白い…病的なほどに。そんな彼女を見るたびに、僕はなんともいえない気分に陥る。甘いような、切ないような、嬉しいような、悲しいような、淋しいような…

「あなたも暇な人ね。最近いつもここに来てる。」

「…サクラさんこそ、いつもここにいるじゃないですか。」

その台詞を、彼女は微笑みで受け流す。僕がここに来たとき、彼女が居なかったことは無い。僕が帰った後もサクラさんは一人でそこに残る。本当に、いつも、ここに居る。いつも同じようにベンチに座り、桜を眺めている。そこに僕が初めて来たのは、1週間前。そのときどうしてここに来たかは覚えていない。何故か、何かに誘われるように、ここに来た…そんな感じだった気がする。名前を聞いたのは2度目に会った日だった。


 「あの…よかったら、名前、教えてくれませんか?」

桜を眺めている彼女の顔をのぞきこみ、言った。彼女は僕の目を見て、ほんの少しの逡巡の後、もう一度桜を見て、そして言った。

「サクラ…ぅん、サクラって呼んで。」

「…サクラさん、か。いい名前ですね。」

「でしょう。」と、彼女は微笑んだ。「よかったら、名前、教えてくれる?」

同じように聞いてきた彼女。僕も同じように数秒考え、答えた。

「ハル…ハルって呼んでください。」

「…ハルくん、ね。いい名前ね。」

「でしょう。」と、僕は微笑んだ。


何故僕まで本当の名前を言わなかったのか、特に理由は無かった。本当の名前を言う理由も、特に無かった、それだけのことだ。とにかく、僕らはお互いの本当の名前を知らない。名前以外にも、何も知らない。


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