多分、救いのない話。-5--7
前に会ったのは、十日も前になるだろうか。
「よ、社長」
もう日付も変わってしばらく経っていたが、一応約束どおり社長は来た。黒のノースリーブのワンピースの上に黒いシースルーのストールを羽織っている。黒と黒という組み合わせの割にはワンピースのデザイン性が高いためか、重くなりすぎず落ち着いた色気がある。火口からするともう少し華やかなぐらいな方が好きなのだが、社長はあまり華美な服装を好んでいない。アクセサリーもあまりしないのだが、唯一胸元にある空色の木の葉のデザインのペンダントが控えめに自己主張していた。
今火口はホテルの一室にいる。VIP御用達のセレブなホテルのスイートルームだ。二十四階の最上階から見える夜景は、男の火口が見ても綺麗だと思わせる。ただまあ、宿泊費は馬鹿にならないが。火口の場合は社長が出すからいい。男として情けない気もするが、女の方が圧倒的に稼ぎが上なのだから仕方ない、と思う。
「ごめんなさい、待たせたわね」
空色の木の葉が僅かに煌めく。普段からしているらしいが、胸元が開いている服の時以外は隠れているため、いつもは見えない。慈愛が欲しがっていたのをなんとなしに思い出した。だから代わりに、同じ色のリボンをあげたという話を。
「時間かかったなぁ」
「慈愛が中々寝てくれなくて。仕事も少し残ってたし」
「もう片付いたん?」
「大体ね」
なんとなく木の葉のペンダントに触れてみる。彼女の体温で暖かかった。
「疲れたんちゃう? 明日も仕事やろ?」
火口の気遣いの言葉を、この社長は――フッと微笑い、ペンダントに触れていた指に指を絡ませ、火口の頬に手を添え、唇を重ねて答えた。舌が絡み合う。……愛情は彼女にはないのだと、だから自分も深入りするなと、どれほど自らに言い聞かせても、彼女のキスは火口の心を溶かす。
唇が離れた。社長の笑みが、艶を帯びている。
「明日は土曜だから。午前中は多少の余裕があるの」
――だから今夜はたくさん相手してあげる。
そんな蠱惑的に囁かれる言葉は、心臓を直接掴み優しく撫でられるようで、安堵と落ち着かなさという相反する感情を抱かせる。これは彼女と相対すると誰もが抱くものなのか、それとも単に惚れた側の弱みなのか。
「待ってて。シャワー浴びてくるから」
ストールを落とし、浴室に向かう社長を――腕を掴み、強引にベッドに押し倒した。
バスン、と鈍い音と共に、スプリングによって社長の身体が跳ねる。「…ッ!」僅かに呻いた女の華奢な身体の上に、男のごつい身体が乗りかかった時、……お互いの眼と眼が、合ってしまった。
「…………」
社長の――彼女の唇の端が、僅かに上がる。いつもは彼女の許可なく強引にすることなど、ない。だから常にない火口の行動が、面白かったのだろう。
「そんなに待ち切れなかった?」
「そりゃもう。社長みたいないい女やったら」
アハッと嬉しそうに笑った。それはあまりにも完璧過ぎて、逆に演技じみたものに見えてしまう。
そんな自分の疑心に嫌悪感を抱き、それを無視するために彼女に溺れようと思った。服を捲り上げ、下着を剥ぎ取ろうと、
「あまり乗り気じゃないみたいね?」
――動作を、止めてしまった。なんでわかったかなんて、そんな愚問は口に出したりはしない。彼女の言葉は間違いなく事実を突いていた。
「ごめんなさいね。先に緊張を解そうかと思ったのだけど」
逆効果だったみたい、と言葉とは裏腹に声には温度がなく。だから火口は、彼女は自分の弱さを責めているのだと思った。
「……すまん」
身体をどける。彼女は乱れた服を直すことなく、身体を起こし、火口を見つめる。
その視線を受け止めることなど出来るはずもなく、眼を逸らした。だけどそんなこと、彼女が許してくれるわけもなくて、火口の頬にひんやりした掌の感触を感じた時にはもう彼女から眼を逸らすことは出来なかった。
彼女の顔には、穏やかで優しげな微笑が浮かんでいる。
「謝らないで。私は貴方のそういうところを気に入ってるの」
私にはない部分だから、ね。そんな言葉も声色も先程と違い穏やかで優しく、火口は自分の勘違いに気付く。最初から彼女は、何も責めてなど、いない。火口の弱さは彼女が一番よく知っている。知っていて、受け入れて、――利用しているのだから。