飃の啼く…第21章(前編)-1
「これ、なんて歌?」
「知らね。」
そっけない返事に、カジマヤは顔をしかめた。
「あのなぁ!」
カウンターの向こうで、繊細な模様の入ったグラスを拭いているのは颪だった。ふてくされたようなカジマヤの顔を見て、にやりと笑う。
「貰った時から入ってたんだよ…ラベルもねえし、何処にも書いてないから、知らないね。」
ジュークボックスから聞こえてくる、歩くようなテンポの落ち着いたジャズ。掠れたような女の声が哀しげに、遠い理想郷を歌っていた。
「貰った?誰に?」
拭き終わったグラスを棚に戻して、颪がジュークボックスと、その前の床に座り込むカジマヤの前にやってきた。
「前の持ち主だよ。決まってんだろ。」
「どーせ、女でしょ?」
「この店を開く時にちょうど付き合ってたもんでな…。」
言葉少なにそう言って、ボタンを押す。甲高いような機械の作動音がして、次にかかったのは重いドラムの音が脳を震わすようなロックだった。
「まーた女?颪ってほんとに見境無いのな。」
「おい、聞き捨てならねぇぞ。」
エレキギターの音は苦手と見えるカジマヤは、ジュークボックスのまん前についている大きなスピーカーから逃げるように颪の後についてカウンターに座った。客はカジマヤ一人。気兼ねなく颪も客席に座る。
「それにこんなうるさい音楽だって、よく耐えられるよな…変わってるって皆に言われるだろ?」
そう言って、店内を見回した。地下の店というだけあって天井はそんなに高くはない。白い壁に打ち付けられた木の棚に、古い映画のポスターやら、レコードのジャケットやらが立てかけてあった。中には、ほとんど裸の女のポスターまである。カジマヤが颪を“女好き”と呼んではばからないのには、こんな理由もあった。とはいえ、確かな根拠もある。会うたびに違う女の匂いを纏う颪を、気の毒に思えるときさえある程なのだから。
「“独特”と言い換えれば響きはわるくねぇやな。」
くっくっと笑って、煙草をくわえた。それをみて顔をしかめたカジマヤが、さらに言い募る。
「おまけにその臭いやつ…そんなの吸ったら鼻が利かなくなるのに…。」
「…おまえはいつからおれの女房になったんだ、よ。」
そういいながらも火をつけないのは、颪なりの気遣いだった。変わりに手近なところにあるボトルにてを伸ばしてグラスに注ぐ。ジュークボックスが、心臓の鼓動のような重低音を奏でて、曲が変わった。なんとなく、話すことがなくなったカジマヤが、思い立ったように背筋を伸ばした。
「なぁ、ホントのところさ、颪って結婚しないわけ?」
飃よりは年下だが、颪の歳で連れ合いが居ないと言うのは、狗族としては珍しいことだ。狗族は生涯をたった一人の伴侶と共に過ごす。それで居て女遊びも浮気も、ほとんど無いに等しい。その反動なのかは定かではないが、狗族は、一度伴侶を見つければ決して禁欲的な性質ではないのだ。飃や飆は、決められた伴侶が16歳になるまで待っていなければならなかった分、結婚が遅いけれど、颪はそんなことを気にする必要は無いはずだった。気に入る相手さえ見つければ、まるで何かを試すみたいに次々に女を取り替えたりしなくていいのだ。