飃の啼く…第21章(前編)-10
「親父…」
「あの女の最後を見んと逝くのが心残りじゃ…」
そう言って、父親は始めて涙を流した。おそらく、最初で最後の涙だったのだろう。こめかみの奥に消える温かい涙に、少し驚いたような表情を浮かべて、青嵐は死んだ。
九尾のみを敵と見据えていた父の命を奪ったのは、皮肉にも九尾の生気を狙って九尾の御所に押し寄せてきた澱みだった。
青嵐は…そうして、彼の父、18代目青嵐は死して、颪は19代目青嵐となった。
紫煙が、回しっぱなしの換気扇に吸い込まれてゆく。ここにくる数少ない客は、煙草の煙を嫌う。颪にとっても、最初は苦痛でしかなかった。だが、これを吸えば、彼の中の“亡霊”が彼を放っておいてくれる。最近は、それが苦痛ではなくなったどころか、逆に長い時間喫わないとイライラするようにさえなった。
新しい煙草に火をつけて、長く深い息を吐く。颪は、あの名も知らぬ曲を何回も何回も繰り返し聴いていた。
むせび泣くような女の声が、懇願するように歌っている。
―私と一緒に来て
あの輝く海を越えて
私たちが見知った世界の果て
どんな夢でも叶わぬような
私たちが味わったどんな悦びにも勝る
世界が そこで待っている―
そんな世界があるのかな、と、この機械をくれた女は言った。こんな世界じゃない、別の…とにかく、別の世界が。
女はこの曲が好きだった。何かにすがりつきたい時…そして、彼が彼女の助けになってやれないときに、彼女はよく歌っていた。颪は、黙ってその女の小さな肩を、よく抱いてやったものだった。
その後、二人の関係が冷め切ってしまうまでに時間はかからなかった。颪にはその覚悟が出来ていた…今まで相手にしてきたどの女もそうだったから。
―貴方と一緒に居ても、必要とされてると思えない。貴方は私を必要としていないんでしょう?
それはある意味では完全に的を得た推察だった。女を必要としているのは“颪”ではなかったから。“青嵐”が必要としているのは女、更に言えばその女が将来彼のために身ごもるであろう子孫に過ぎないのだ。ひとたび身体の関係を持てば、結婚という形で成り立つ契約と、その契約が双方にもたらすであろうその後の苦痛の日々を思うと、どうしても女を抱くことを拒んでしまう。そして、その苦痛を乗り越えることを選んでくれるような女には、今のところめぐり合っては居なかった。
父のようにはなりたくない。そして、子供を身ごもるための道具然に扱われた母のような女を作るのも嫌だった。
ジュークボックスが曲を変えると、颪は白昼夢からさめた。煙草の灰が長く伸びて、無駄にした時間の長さを教えていた。颪は煙草の先を灰皿に押し付けて、最後の煙を吐き出した。