Mermaid 〜天駆ける馬〜-1
「ピーマン。にんじん。たまねぎ。じゃがいも。牛肉切り落とし。・・・はい。」
「ぴーまん。にんじん。たまねぎ。じゃがいも。ぎゅうにくきりおとし。・・・はい。」
「・・・はい、は言わなくていいですよ・・・。」
とあるマンションの一室。海向きのベランダから朝日が差し込み、向かいあう男女の横顔に新鮮な陽光を投げかける。
テーブルに置かれたメモ用紙の束をじっと見つめて、その少女は妖精のごとく愛らしい顔を顰めた。
「・・・じゃあドルチェ、僕はそろそろ出ますから。危ないことしたらだめですからね。・・・行ってきます。」
椅子から立ち上がり、玄関に向かった青年を追って、
「あ、ああ・・・あの、その、・・・い、いって・・・」
もごもごと口篭もる様子には気づかず、青年はにっこり微笑むと、ぱたりとドアを閉めた。
「・・・・いって、らっしゃい。」
仏頂面で呟いたその一言は、ベランダの観葉植物たちにも届いたか、どうか。
三日月夜の浜辺でドルチェと天馬が出逢ってから、早一ヶ月。
依然としてドルチェは、一人暮らしをする彼の元で厄介になっていた。
否、三日目の朝に出て行こうとした彼女を「危なっかしいから」と言って、天馬が引き止めた、というべきか。
彼がそう思ってしまうのも当たり前で、人魚国の姫であったドルチェが、人間界の常識など知るはずもなく。彼女自身、もしも天馬がいてくれなかったら・・・と考えると、今更ながら不安に苛まれるほどであった。
「――実際、あいつはいいヤツ、だよな。」
右手にエコバッグ、左手に先ほどのメモ用紙を持ち、『スーパー伊東』に続く海沿いの国道を歩きながら、ドルチェは独りごちた。
人魚の掟に従って、たった一人で人間界にやってきた彼女に居場所を与えてくれただけでなく、その心細さをも埋めてくれたのが天馬だった。彼は殊更に身の上話を強要したりせず、一風変わったこの少女を、ただ受け止めてくれたのだ。
彼も、自分自身についてあまり多くのことは語ろうとしなかった。ドルチェが天馬について知っているのは、彼があの晩呟くように語ってくれたことだけだ。一つは、彼は医者の跡継ぎであったということ。そしてもう一つは、その両親の元を逃げ出して、遠く離れたこの街に独りやってきたということ。
詳しい事情こそ分からないが、二人の間では、それだけで十分だった。
だから、せめてもの恩返しになればと、こうしてお使いに出ているわけなのであるが。
「主はいるか。」
『スーパー伊東』にドルチェの凛とした声が響く。
開店して間もない店内にちらほらと散らばっていた、買い物カゴを下げた主婦たちが、一斉にこちらに顔を向けた。
「・・・は、はい・・・」
おずおずと進み出てきた、黄緑のエプロンをつけた中年の女性に、ドルチェは問うた。
「切り落としピマーンはあるか。」
「・・・・・・・はい?」
ぐつぐつと鍋から白い湯気があがり、同時に美味しそうなにおいが立ち込める。
銀の玉じゃくしで黄金色のルーをすくい、味見をしたドルチェは一人、満足気に頷いた。
とても、ついこの間まで海底で人魚姫として暮らしていたとは思えない、主婦生活への適応性ではある。
「――あいつはカレーが好きだから、な。」
そう呟いて、彼が残してくれた手元のメモを見やる。分量から野菜の切り方まで、几帳面な性格の天馬がきっちり記してくれたこともあるが、初めてにしてはなかなかの出来栄えであった。材料の購入には多少手間取ったものの、天馬が用意した買い物リストを例の店員に見せると、少々顔をひきつらせながら必要な食材を勝手に買い物カゴへ放り込んでくれた。