Mermaid 〜天駆ける馬〜-2
「・・・”最後に火を止めて、ふたを閉めて”・・・と。よし。」
ドルチェはキッチンと一繋がりになっているリビングに向かうと、右手に持ったサインペンで、メモ用紙の最後の項目にチェックを入れた。
それらをサイドテーブルの上に放り出すと、灰色のソファーにぱふん、と腰を下ろした。リモコンに手を伸ばし、テレビのチャンネルをピコピコ変えていく。
画面の中では、彼女の知らないアナウンサーが、彼女の知らない芸能人のスキャンダルを大袈裟な身振りで報道していた。今人気の女性歌手との交際が発覚したとか、しないとか。
いかにも現代人が好みそうな騒ぎであるが、ドルチェにとっては実にどうでもいい話の一欠けらにしか過ぎなかった。――それよりも。
「・・・あいつ、いつ帰ってくるんだ・・・」
ふと、そんなことがぽかりと心に浮かんだ。
天馬が家をあけるのは、何も今日が初めてではない。大概それは『大学』の『研究室』という所に行く場合であり、彼自身もドルチェを心配して帰りはさほど遅くならないように気を配ってくれていた。今はまだ午後三時をまわったところ。心配しなければならない理由はどこにもないのだが。
――もし、このまま帰ってこなかったらどうしよう。
ふいにそんな考えが頭をよぎって、慌てて打ち消した。しかし、立ち込める黒雲の勢いは弱まることなく、彼女の心を支配していく。
今頃、彼はきっと大勢の仲間と一緒にいるのだろう。未だ天馬の他に人間と関わりを持たないドルチェにとって、それらはテレビの中のアナウンサーや芸能人と同じく、形のない平面的な存在にすぎなかった。そして、そんな彼らに囲まれている自分の知らない天馬がいることが、何故だかどうしようもなく歯痒かった。
「・・・何で、そんなこといちいち・・・気にしてるんだ」
――こんな気持ちになることは、今まで一度もなかったのに。
思いを振り払うように顔を上げて、ベランダの向こうの空を見上げた。雲一つない快晴であった。
『本日は全国的に穏やかな秋晴れが続くでしょう。夕方から夜にかけて、ところによっては流星群が見られるかもしれません。』
芸能人のスキャンダルは、いつの間にか天気予報に変わっていた。クリーム色のスーツを着たキャスターが、にこやかに『晴れ』マークを指している。
――もう少ししたら、ペガサス座が見られるかもしれませんね。
ふいに、天馬の声が頭に浮かんできた。夜空を見上げていた、あの時の彼の眼差しと共に。
ドルチェはテレビを消し、ソファーに倒れこんだ。
波打つ長い黒髪がぱさりと広がる。艶やかな流れを指にからませて、まだそれが紫色だった頃に想いを馳せる。
――この髪の色・・・いつの間にか嫌じゃなくなったのは・・・な、んで・・・
遠くからかすかに聞こえる波の音に包まれて、ドルチェはゆっくりと眠りにおちていった。
暮れなずむ海沿いの国道を、一人の青年が急ぎ足で歩いていた。
オレンジ色の夕日はもう、海と空の切れ間に沈もうとしている。
波に反射する残光が眩しい。
――しまったな・・・こんなに遅くなるとは思わなかった。
そう胸の内で呟いて、彼は腕時計を見やった。時刻は六時半。ジョギングや犬の散歩をしている人も多く、外が闇に包まれるにはまだ早い時間帯なのだが、しかし青年の歩調が弱まることはなかった。
「ドルチェ・・・大丈夫かなぁ・・・。」
思わずそんな心配が口をついて出る。夕方五時以降、彼女を部屋に独りにしておくことは、今までなかったはずだ。怖がっていないだろうか。・・・尤も、そうであったところで素直に甘えてくる性格とは思えないが。
「はぁ、はぁ、着いた・・・。」
玄関ポーチの階段を二段飛ばしで駆け上がり、乱れた息のままエレベーターに乗り込む。
六階の表示ランプが点くまでの時間が、やけに長く感じた。