飃の啼く…第20章-9
「飃?」
言いかけて、口をつぐんだ。
「…あの女……もう限界で…」
中から飃じゃない声が聞こえる。聞き覚えがあるような…でも、そんなはずは…
「だが…あんたのしようとしていることに賛成するものは多くは無いぞ。」
飃が…おかしいほど低い声で話している。誰かに効かれていい会話ではないことは明らかだった。ますますおかしい。そして、その相手の声が…どうにも…よく聞き取れないほど小さな声で話している。一体何を話しているのだろう?
「おれは長い間待…おれの前に死んでいった先代たちは待っても…われなかった。そろそろ潮時だろうと…全てを終わりにす…」
低い声はどちらも落ち着いていた。廊下を慌ただしく行きかう裏方や、神楽の関係者の足音が、どたどたと鳴り響いて邪魔をする。
「…賛成しかねる。せめて…彼女のあとを継ぐものが見つかってから、というわけには行かぬのか?」
「…あの女の跡継…あの女がそう簡単に自分の玉座を明け渡…。」
嘲る様な響きは、珍しいことに飃をたじろがせたようだった。飃は言葉につまり、
「少なくとも…己を除いた七長は、このことを聞いたら黙っては居るまい。」
謎の男はふっと笑うと…そう、私には解った。障子の向こう側から、彼が確かに私のほうを振り向いて、じっと見たのを。私の心臓は急に速度を上げて脈打ち、身動き一つとったら全てが終わってしまうかのような緊張感の中、行きも出来ずに立ち尽くしていた。そして、視線が外れたのを感じると同時に、部屋の中から小さな爆発音がして、彼が姿をくらましたことがわかった。
それから、優に一分はその場で動かずに待っていて…もう話し声が聞こえないのを確認してから、まるで今来たかのように障子を開けた。
「さくら!」
「お疲れ様。」
飃はまだ舞台衣装を身に着けていて、近くで見るとそれはいっそう美しかった。無地の黒い衣は、銀を織り込んだみたいにきらきら光っていて、飃の毛皮にそっくりだった。衣の下のほうには、優雅に渦を巻く風の文様が入っていた。長いその衣は袍(ほう)とよばれる。その下の足元から、スカートのような裳が覗き、さらにズボンのような表袴を履いていた。腰をくくるのは、長綬(ちょうじゅ)と短綬(たんじゅ)。美しい刺繍が施されている長く細い帯を、結び目から足元に見栄え良く垂らしている。玉佩(ぎょくはい)に似た装飾品が、右腰にあった。日本古典文学の資料集で見た限り、飃の格好は奈良時代の礼服を少し簡素にしたもののように思える。まぁ、そんな能書きはさておき、ようはこのながーい考察をする間中ずっと、私は飃に見とれていたのだ。
「どうした、奥方。」
飃は少し恥ずかしそうに私に背を向けた。玉佩がじゃら、と音を立てる。
「余り見るな…なれない格好で居心地が悪いのだ。」
「なれない格好の飃に、大勢のファンの皆様がため息を漏らしてらしたわよ。」
私が意地悪く言う。