飃の啼く…第19章-7
一方あなじは、自分の手の中の九重が崩れていくのに気をとられ、黷の意図を読みきれなかった。
「女よ…」
あなじが顔を上げたとき、彼女の前には、真っ黒な毒気が渦を巻いていた。
それが何か記憶が反応する前に、彼女の身体は毒気の霧に包まれた。
「あ…ぁああ!!」
声と空気を同時に吐き出しても、霧を吐き出すことは出来なかった。全ての毛穴、全ての隙間から、霧はあなじの中に入り込み、彼女を犯した。彼女の思考、記憶、意思…それら全てを奈落のそこに蹴落として…後に残ったのは、ただの「入れ物」だった。
「な…!?」
風炎は、いま目にしているものを受け入れることが出来ずに、それでも受け入れざるを得なかった。絶望が彼らの世界の空を覆いつくし、裂けた地面からは破滅が手招きしていた。
「おい…狐…。」
飃が言った。
「これを…切れ。」
「だが…そんな身体で…」
「切れ。」
断固とした飃の声は、風炎にこれ以上の躊躇を許さなかった。風炎は無理やり体を起こし、日本刀を抜いた。
まず一本。鎖の束縛から解放された腕は、重力にしたがって床に叩きつけられる。もう片方の腕を鎖から切り離すと、彼は立ち上がり、利き腕に力をこめた。
すると、彼の腕を伝って、真っ黒な液体が集まり、やがて盾を形作った。液状の盾など聞いたことは無かったが、現に目の前にあった。そういうことを可能にしてきたのが、あの娘とこの狗族の戦いだったのだろうと、風炎は理解した。飃は言った。
「さよならだ、北斗。」
そして彼は、彼の盾から返ってきた返事にうなずいた。風炎の耳には届かなかったけれど、飃はゆっくりとうなずいた。
「ああ…すまない。」
そして彼は…
「あ、おい!」
風穴から身を躍らせた。かすかな風を身体で受け止めて。
その一瞬前、風炎が見たのは、彼が神立を模して作った分け身が雨の中で見た、八条さくらの瞳…それにそっくりな飃の眼差しだった。
「さあ 女。吾の元へ 二人で混沌を創造しよう 屍の山を 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の海原を ゆくのだ。日輪を暗澹(あんたん)たる雷雲で覆い隠し わずかに残る生命さえ腐敗させんがため・・・ 」
あなじは、一歩ずつ、下手な傀儡師の操り人形のような足取りで、黷の元へと歩んでいった。