Whirlwind-3
「もう、払わなくて良いよ…。」
娼婦と労働者の組み合わせは、珍しくも無いが未来も無かった。こんな時代の、こんな町で、未来を見出すこと自体が…当時は困難だったのだ。それでも二人の愛は本物だった。火種にともす前に燃え上がってしまった炎ではあったけれど、すぐに消えたりはしなかった。ラッキーは、乏しい賃金をアリーンに与え、彼女の上司に払う諸場代に足した。
そして、二人は幸せだった。
1888年、8月も終わりの、あの日。
路地に横たわる女の体。
暖かい血が、男の体を、服を、侵していく。
男は叫んだ。こんな獣の檻のような町で、雄たけびを上げたところで誰も見向きもしない…それでも、彼の慟哭は夜を震えさせ…きっと月までとどいたのだろう。満月さえも、煤っぽい雲のベールで顔を覆った。
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ぬれた体を起こす。自分の叫び声で目を覚ましたのは初めてではない。でも、今日の夢はいつにも増して鮮明だった。女の脈動がこの手に感じられるほど…。
凍えているみたいに震える手に滴り落ちた液体にびくっとする。一瞬、まだ夢が続いているのかと錯覚して…顔に触れて、血など付いていないことを確認する。まだ息が苦しくて、身動き一つとらないで何かが終わるのを待っている自分の姿は、まるで子供か何かのようだと思った。
「畜生…親父……頼むよ…。」
両手の中に顔を埋める。
―放っておいてくれ……
つぎはぎの様なイーストエンドの町並みは、レンガ造りという共通項を残してあとはすべてちぐはぐな建物が隙間無く並んでいる。
窓から外を見下ろすと、衣料品やらを詰め込んだ袋を手に、歩いている人影。今日は日曜日だから、ペティコート・レーンと呼ばれるマーケットが開いているのだ。おびただしい数の屋台が軒を連ね、売り手はコックニー(下町英語)を並べ立てた口上で客を呼ぶ。雑然とした下町の、雑然とした一コマだ。
立ち上がって、バスルームへ入って、シャワーの蛇口をひねる。
「今日は出てくれよ…。」
湯が出てこないのは日常茶飯事だが、大家に電話したところですぐに修理するわけではない。蛇口をひねって湯が出ないのなら、朝のシャワーは水で我慢するしかない。
幸いにも、今朝は飛び上がるほど熱い湯がでたので、少なくとも凍えずにすんだ。
今夜は人と会う約束がある。それも、女。
満月が近づく今、人と会うのは都合が悪かったが、急を要するとのことだったから仕方なく承諾した。と、なると…