多分、救いのない話。-2--6
永い一瞬のように感じたのは、多分葉月の気のせいだったと思う。
「慈愛が?」
その証拠に、この母親は特別態度を変えていない。妙にそれに、イラっときた。
「ええ。切り傷のようなものを私は確認しています」
「知らなかったわ。きっとこけたんじゃないかしら。あの子の事だから」
だがそれは、相手の態度に腹が立つのは、こちらは真剣なのに向こうはそうではないという、子供じみたものだからだろう。
「本人も、そう言ってました」
「なら、そうなのではなくて?」
「違います」
まるであしらわれているように感じて、少し語気が強くなる。
「あれは刃物による傷です。何箇所もありました。“誰か”に傷つけられない限り、あんな傷はつきません」
「…………」
葉月の断言に、この母親はほんの僅かに片眉を上げただけだった。
しかしそれでも、葉月は続けて訴える。
「慈愛さんは“誰か”に傷つけられ、それをかばっています」
「“誰か”?」
「誰かは分かりません。慈愛さんは私には話してくれない。ですからお母さんに伺おうと思ったのです。お母さんは御存知でしたか?」
「…………」
珈琲を一口飲むと、母親は口を開いた。
「先程言いませんでしたか?『知らなかった』と」
「ならば」
さらに語気を強めて。自分の教師としての役目を全てその一言に込める。
「今、知りましたね」
「…………」
葉月の真剣な眼差しを、この母親はじっと見つめ返している。まるで、観察しているかのように。じっと絡みつく、緊張に満ちた時間。
長く絡み合う視線を先に外したのは、母親の方だった。
「分かりました」
また珈琲を口に含んで、
「慈愛には私からそれとなく尋ねてみます」
釈然としなかった。状況は一切変わっていない。納得できない。
それでも、葉月に出来るのは、今はここまでだ。
ここでようやく、葉月は出された珈琲を口に含んでみる。苦いが、意外と美味しかった。インスタント珈琲とはさすがに違う。
「話は以上です」
「ありがとうございました。わざわざ時間を割いていただいて、本当に申し訳ないと思っております」
「いえ。まだ可能性の話ですし、ですが、もし何かありましたら、私も担任として出来る限りのことはさせていただきます。お母さん、場合によっては警察に頼ることを躊躇わないでください」
切り傷ということは、刃物を使われている可能性もある。下手したら殺人未遂になるかもしれない。
「分かりました」
先程と同じ返事を繰り返し、母親も珈琲をちびちびと飲む。
もう帰ろうと、カバンを手に立ち上がるが、
「あ、そうだ」
ほんの気まぐれで、訊いてみる。
「慈愛さんの自宅学習の様子を、少し見せてもらえますか?」
「え?」
「お母さんが教えているということですから。私も参考にさせていただきたいです」
本当は、神栖の様子が気になっただけだが、ストレートに言うのは憚られたので遠回しに言った。
「大したことはしていませんわ。問題を解かせて私が答え合わせしているだけですもの」
「いえ、慈愛さんの成績は全国レベルで見てもかなり良いほうですよ」
お世辞ではなく事実を言っただけだが、確かに塾も家庭教師もつけていないのにそれだけの成績を収めるのは容易ではない。話しているうちに本気で気になってきた。
「お願いしますよ、是非」
「…………」
少し思案顔で考え込まれたが、ん、と一人で頷いた。何かの折り合いがついたらしい。
「分かりましたわ。どうぞこちらへ」