『ショート プログラム』-3
『命名』
詩人の彼が居る。
正確には常に詩人でありたいと願っている大学生の彼。彼いわく
「詩というのはね、名づけのことなんだ。物事に、より正確で本質的な名前を改めてつけなおしてやろうという試みのことなんだ。」
とのこと。
私にはよくわからないけど、こういうことを語るときの彼の声の響きが好きだから、意味などほったらかしてただ聞いている。でも今日はたまたま、珍しくひとつ疑問が生まれたので、しかもその疑問の答えがとても興味深いものだったので、彼に聞いてみることにした。
「じゃあさ。」
私は言う。
「私になにか新しい名前をつけてみてよ。」
彼は一秒か二秒くらいの間、何かを探すように右斜め上に視線をやってから
「すきなひと。」
と言った。
「僕が、僕のことが、世界で一番好きな人。」
なるほど。
いかにも私にぴったりの名前だ、と思った。
《悲観論者》
「自分には生きる意味も価値ももともと与えられてはいないのだ。」
十四の時、僕はそう信じ込んだ。
いかにも偉大な発見であるように僕は思った。
しかしそれは結局の所、大昔から誰もが気付いていた普遍的な思想の一つに過ぎなかった。
そのころの僕は何にでも絶望したがった。ペシミスティックになることが、大人になることの一部だと思っていたのだ。あるいはそれはある意味で正解であると言えるかもしれないが、三年後にはそう考えることにも飽き、以来僕はほとんどのことに楽観的になることに慣れている。
今日も娘の前で笑っている。
妻のつくる料理がおいしいのだからしかたがない。
『反論』
「ごめんなさい。」
と言って頭を下げたら、その人はあっさりと引き下がった。
安心を感じる反面、ちょっとした寂しさも感じる。
彼のことは嫌いじゃなかったし、もしかしたら好きになれるかもしれないとも思った。
でも私はごめんなさいと言った。
もし彼が食い下がって、どうして断るのかを聞いてきたら、私は理路整然とその理由を並べ立てただろう。十個くらい。簡単なのだ、理由なんていくらでも見つかる。私がいやな女であるからとか、私が退屈な女であるからとか、あなたと付き合ってもきっと長続きはしないだろうという無根拠の予想とか。
でも私は、
今振り返って思えば、私は、ただその理由よりも少なくとも一個多く、私のことが好きな理由を聞きたかっただけなのだ。
「ごめんなさい」と言えば「どうして?」と言って欲しかったし、
「あなたがあまり好きじゃない」と言えば「好きにさせてみせる」と言って欲しかった。
「私なんかと一緒でも楽しくないよ」と言えば「そんなことない」と言って欲しかったのだ。
こんな私は、なんていやな女だろう。
本当に、なんていやな女なのだろう。
こう言って、また、
「そんなことない」
という言葉を掛けられるのを待っているのだ。
本当に、なんていやな女。