溺れてみれば…(前編)-1
あたしが大学を辞めてからというもの、親はすっかりまいっていた。当のあたしはあっさりとしている、そうであるに限る。 人間追い詰められると冷静な判断ができなくなるからだ。例えば一夜にして娘が名門女子大生から世間でそしられるニートに転落してしまった悲しみのあまり、その娘を絶縁してきた遠縁の伯母に任せてみようと言い出したり―――
台風が去った後の南国の風と秋の風がいりまじった郊外のH駅にあたしはひとり立っていた。荷物は大きめのハンドバッグ一つ。携帯の充電器と簡単な洗面用具に下着という新生活への覇気はおよそ感じられない装備だ。
覇気に充ち満ちているのなら中退などしない、そして親にいわれるまま経歴不詳の伯母の屋敷になど行かない。
運転席から男がおりてくるあの黒いセダンがどうやら伯母からの迎えの車のようだが、タクシー乗り場の隣に止めていたのでいかんせん気付けなかった…つか迷惑だろ!
「奥村澪(みお)様でいらっしゃいますね。私は雪と書きましてすすぎと読みます。澪様の伯母にあたられる神取由紀子様の付き人をさせていただいております。」30そこそこの青年にしては貫禄があるというか随分落ち着いた男だと思った。立ち居振る舞いだけでく顔も品がよい。
誰かにドアをあけてもらって車にのるなんてはじめて…その行為は自分は上等の存在なのだと嬉しい錯覚をおこしてくれる。
こんな付き人とこんな黒塗りセダンをもっているなんて、その「各親戚からことごとく絶縁されている伯母 」とはどんな人物なのか?「屋敷」というからには相当おおきいのでは?それは山中にあるときいたけどなぜそんなに辺鄙なところに?
疑問はつきないが雪(すすぎ)氏にぶしつけにあれこれきいてもいいものか…と悩んでいると彼の方から話しかけてきてくれた。
「澪様は二十歳とうかがいましたが…いえ失礼致しました、ワインの発注を担当しているものですから。」「ええそうです、由紀子おばさんとお会いしたことがあるはずなんですけどあまりに小さくて覚えてないんです。彼女はどんな方なんですか?」雪(すすぎ)氏はプッと笑って言った。「伯母様を彼女だなんて…いやむしろ伯母上様といったほうがよろしいのでは?」「冗談でしょー!貴族マンガじゃあるまいし、せめて伯母様とか由紀子さんくらいが妥当ですよ。」
そんな実のない会話の間に車はどんどん山方面に進みいつしか林道に入っていった。
「由紀子様はよい意味でもまたは、そうでない意味でも敏感で繊細な方でいらっしゃいますからね、初めは戸惑われるでしょうけどお心を開いて接すればあなたのよき理解者となられるでしょう。お困りの時は私がアドバイスさせていただきます。」 「まあ雪(すすぎ)さん 、ほんとうにありがとう。でも伯母に関して私何も知らないから…」車が停まった。
神取家の門は見上げても全貌がわからないほどだった。門番か警備員らしき男が急ぎ開門する。車は敷地内にはいっていき目の前には車寄せがせまっている。
車から降りると雪(すすぎ)氏が屋敷玄関を開けベルを鳴らしている。それにこたえるように階段から背の高い女性が降りて来た。
「あなたが澪(みお)…?」180はあろうかというその伯母はスレンダーの肢体にだらしなくガウンを羽織ってのそのそと歩いて来た。
「奥村澪です、これからお世話になりますがなんでもいいつけてください。」「私は神取由紀子、よろしくね。早速いいつけて悪いんだけど私のことは由紀子って呼んでちょうだい。」度肝を抜かれてそれしかしゃべれなかった。あたしはあの人を見て「マネキン!」と叫びたいほどだった。顔とスタイルはとにかくいいが生活感がみえないというか人間ばなれした容貌だった。金髪のパーマヘアーで顔ははっとするような美しさ。あれは寝化粧だったような…夕方にガウンをかけておりてきたところを見ればなかなかだらしない生活をしているようだけど、その香しい臭気に多少の生活感は吹き飛ばされてしまいそうだった。