飃の啼く…第10章-2
「あの人間女に名前までつけてもらっていい気になってんじゃないっすかァ?」
だらしなく寄りかかっていたソファから身を起こす。射るような視線は、黒目がないせいで奇妙に虚ろだった。
「…本当にあんたはこっち側の人間なのかい、ってことっすよォ。うまくほだされた用にも見えっから、さ。」
狐はあくまでも冷静に言い返す。
「僕はスパイだ。スパイなら相手に『ほだされた』ように見せるのが仕事だろう。」
違いない。と、獄が言う。
「敵にも味方にも疑われるのは、有能なスパイの証拠というわけだな。だが…」
獄は狐のほうを向いた。
「私の大事な囚人たちを一人残らず逃がす必要はあったのかね?」
狐が言葉もなくにらみ返す。獄が本当に答えを必要としているのか、それとも、問いという形で己を牽制しているのか見極めようとするかのように。
「・・・それを言うなら、自分の性欲処理のためにあの狼を捉える必要性も疑わしい。個人的な感情をはさむのも大概にしろ。」
蚩が口を挟む。妙なアクセントには、幽かに異国の訛りが混じっている。だが、その声に宿るは苛だちだった。彼の服に取り付けられている瓶の中の虫たちが、落ち着きなく羽ばたいた。
「捕まえてあった土地神だけでもあいつらをおびき寄せる餌になっただろうに、わざわざ危険を冒して狼を誘拐とは…」
風炎が首をふり、言う。
「そのお陰で君が奴らの仲間だと思わせることが出来たのではないか?“風炎”君。それに、個人的な感情を挟んでいるのは君も同じだろう、蚩。わざわざ日本まであとを追ってくるとは・・・未練がましいものだな?」
嘲笑を隠そうともせずに獄が笑う。
「な…!」
それまで、じっと窓の外を見て黙っていた黷が口を開いた。
「諸君、静かに。」
黷がこの者達を自分の近くに置いておくのは、ひとえにこのやり取りがあるからだ。疑惑、嫉妬、憎悪…そして、欲望。澱みにとっては、どんな酒より味わい深い美酒だ。澱み同士では、このように複雑な感情は抱き得ない。人間か…あるいは狗族でなくては。
それが、黷がこの騒がしい議論を許しておく理由だった。
「擾。」
「はっ。」
と、擾がかしこまった声を出す。顔を覆っていたふざけた表情は掻き消え、無表情が取って代わる。
「行け。ただし、殺すな。」
「…待ってました。」