千から始まり零に繋がる物語-2
──けれど、ここはあくまでifの世界……現実とは違う。もう一度その鏡を通り抜けたなら、そこはあなたが望まない世界──
その言葉の重みは、彼には大きすぎた。
A.小を捨て小の苦難の中で生きるか?
B.大を捨て永遠の安楽の中で生きるか?
彼は悩んだ。鏡の向こうに繋がる世界は、決して自らが望む世界ではない。しかし、現実で再びやり直すことができたら、職も妻も取り戻すことが可能なのだ。失敗すれば、終焉だけが待っている。
今なら、全てを捨てて、自由なこの鏡の世界で永遠の安楽を得ることができる。
悩み抜いた末の、男の苦渋の選択…………
それは、この世界に留まるというものだった。
──そう、では、あなたの傍にこれを置いてあげる──
声はそう言い残し、消えた。
鏡の前に神々しい光が現れ、一つの影を産み出した。
男はそれを手に取り、唖然とした。
それは、一体の人形だった。
しかも、それは、街角で出会った少女の姿だったのだ。
しかし、男には、その意味がまるで解らなかった。
それからの男の生活は、だらしなく、不清潔なものとなっていった。
朝、目覚めればテーブルの上にはパンとコーヒーが並び、昼、空腹を感じれば望んだランチが姿を現し、夜、やはり望めばスパゲッティやコーンのスープなどのコースが並ぶのだった。
職に就かずとも生きていける、けれど、そこに『生きる理由』がない。
男は、この飽和した世界に、今さらながら後悔をしていた。
ある日、男はあの日授かった一体の人形に問う。
──きみはなぜ、わたしをこの世界に導いたのか──
人形は応えない。男は、それを知りながら、しかし問いを切らさない。
──また、あちらの世界に戻りたいよ。どうすればよいのだ──
人形は応えない。男は、しかし尚も問い続ける。
──いったいこの世界はどうなってしまっているのだ──
人形は応えない。
男の絶望は、もはや運命だった。
しかし、そこに現れたのは、あの声だった。
──愚かな人形……彷徨える、無様な人形──
男は、僅かな期待を抱いて問うた。
──わたしは後悔している。わたしをどうか、元の世界に戻してはくれぬか──
その悲願は、とても苦しいものだった。
──望みなら何でもしよう。妻が戻らずとも良い、職ももう要らない。ただ、あの世界に戻りたいだけなのだ──
声は、その悲願に、しかし無慈悲に言い放った。