飃の啼く…第9章-19
「奴は…己は、あの部屋であの妙な匂いに頭をやられて、俺は頭がどうかしそうだった…いや、実際どうかしたのかもしれない…奴は、己を気遣っては、痛めつけた。だが、奴は優しかった…そうだ。己は気がふれていた。声を上げるくらいなら死にたかった…だが、あいつの囁く声が…手が…」
次第に、飃の声が震え始めた。言葉が秩序なく流れ出て、混乱と、彼がめったに抱かない恐怖が体を震えさせた。それを抑えようとしているのか、飃の手が、私の服をぎゅっとつかむ。
「己はイったんだよ、さくら。あいつの手で、あいつに犯されながら、まるで獣のように、声を上げて達したんだ!畜生!殺してやる!あの男を、千の錆びた刀で串刺しにしてから、身体の一部ずつをもぎ取って、心臓を抉(えぐ)り取って、殺してやりたい!!殺して…!!」
そして、声を上げて泣いた。子供のように。途中、私に何度も謝りながら。すまない、すまないと。
私はそれには答えず、ただ「愛してる」とだけ伝えた。言葉ではなく、抱擁で。
どれくらいの間、そうして抱き合っていただろう。
「飃は…自分が穢れたっていったよね…でもね…ここは…」
そして、幾つもの傷跡で埋め尽くされた胸板の、心臓の上に手を置いた。
「ここが、私を思ってくれる限り…そして私があなたを思う限り、決して穢れたりなんか、しない!」
私の目を見返す前に、急に飃が立ち上がり、決然とした足取りで浴室を出て行った。水を滴らせたまま、台所まで行くと、ガスレンジの火に包丁を当てて熱し始めた。
「飃…」
言いかけて、止めた。これでまた一つ、飃の傷が増える。癒えることの無い傷…。
でも、私はいつもそばにいて、その膿を奇麗にしてあげよう。
飃が、下腹部の刻印に包丁を当て、その刃をひいて刻印ごと肉を切り落とした。肉の焼ける音がぶすぶすと聞こえる。それなのに、飃は一言も声を上げなかった。
私は、それを見守りながら、飃の、少し痩せた背中を見ていた。
飃が振り返ると、痩せても尚、彫像のように美しい肢体があった。傷だらけの。そして、下腹部には、また新たに痛々しい傷が出来た。私は濡れた服を脱いで、タオルを体に巻きつけると、何も言わずに、救急箱から消毒液とガーゼと包帯を出した。飃の身体を拭いて、ベッドに座らせる。優しく、丁寧に傷を覆い隠す。飃はもう、私の手が触れても大丈夫なようだった。そして、私の頭に手を置き
「ただいま」
と言った。とても、静かな声で。
「うん…」
私は言った。
「おかえり。」