忘れてしまった君の詩-3
目が覚めたとき。
目に飛び込んできたのは、真っ白な天井と染みるような日光。そして、霞のかかった女性らしき顔。
次第に霧が晴れるように、視界は鮮明になり、僕の視覚はその人を克明に捉えてゆく。
とても綺麗な女性だった。歳は二十代の半ばくらい。肩を少し越えたくらいの艶やかな黒髪。ほっそりとした卵形の顔。上品に整った鼻筋。春色の唇。
どうやら僕は異界に迷い込んでしまったらしいと、この時ばかりは本当に思ったものだ。
それくらい彼女は美しかったのだ。
(……?)
女性が何かを口にした。「リュウ?」
二回目で、ようやく僕の耳はその声を拾った。高くなく、それでもハスキーとは呼べない独特な声域。
「リュウ!」 「!?」
突然、僕の胸に圧迫感が襲った。こともあろうに女性が抱きついてきたのである。
「あ、あの!?」
引き剥がすにも抱き返す訳にもいかず焦る僕。それにも関わらず、彼女の抱きつく力は緩まない。
「よかった!このまま、リュウはずっと目を覚まさないんじゃないかって、あたし不安で…」
それどころか、彼女の細腕のどこにそんな力があるのか、それは更に強いものになってゆく。
(困ったぞ、これは)
何がどうしてこんなことになってしまったのか、僕にはさっぱりわからなかった。
とにかくわかっているのはこのまま彼女にくっつかれたままでは非常によろしくないということ。
つまり、その……これは僕と同じ男ならわかってもらえると思う。
『こんな時に何を考えてるのよ!』
などと、賢明な女性読者には怒鳴られるかもしれないが、責めないでください。
それが男という生き物なんだから。
と、首筋に冷たいものを感じた。
「…やだよ。もう、こんなの…やだよ…」
彼女は泣いていた。声を殺し、それでも抑えきれなかった嗚咽を漏らしながら。
それに気付いたとき、パニックで真っ白になりかけていた頭も起きだしてきた息子もいっぺんに醒めて、僕は彼女を抱き締めていた。
「うっ…う…」
何か言ってあげたかった。
―大丈夫だよ。
―ごめんね。
―ありがとう。
でも、どんな言葉も僕の口からは出なかった。代わりに、僕は泣き止むまで彼女を抱いていた。
声にならない想いを、彼女に直接流し込むように―
どれくらいの時が過ぎたろう?
窓から漏れる光も大分優しく赤みを帯びたものに変わってきた。
彼女の泣き声もすっかり聞こえなくなり、それでも僕達はお互いに黙ったまま、身を寄せ合っていた。
だが、それもそろそろ限界だ。
「あ、あのぅ?」
僕は有りったけの勇気を振り絞って声を出してみた。
「なぁに?」
さっきまで泣いていたのが嘘だったかのような、甘い声。
唾を飲み込み、僕はかねてからの疑問を彼女にぶつけた。
「あなたは誰ですか?」
「えっ?」
ビクリッと、僕の胸の上で彼女が震えるのがわかった。彼女の端正な顔立ちが僕を見る。
「今、なんて?」
僕を覗き込むその顔は、不安や猜疑、困惑といった感情が入り交じった表情をしていた。
さっきまで泣いていたために、目が少し赤くなっている。
「今、なんて言ったの?」僕から離れ、もう一度、念を押すように彼女は言った。
だから、僕も覚悟を決めて、その言葉をもう一度口にした。
「あなたは誰ですか?」
「冗談、かしら?」
もはや、笑っているのか泣いているのかもわからない表情を彼女はしていた。
「いくら私でも、そんな使い古されたネタなんて笑ってあげられないわよ?」
「冗談じゃないんだ!」
「!!」
思いの外、大きな声が出てしまった。でももう、走り始めてしまった感情を僕は抑えることができなかった。
「あなたが誰なのか、僕には本当にわからないんだ!それどころか、僕が誰なのか、ここがどこなのかさえもわからない!さっき僕のことリュウって呼んでましたよね?それが僕の名前なんですか?あなたは僕を知ってるんですか?ねぇ!教えてください!!」
声を出すことがこんなに体力を消耗することだなんて知らなかった。おかげで全てを言い終えた頃には、肩で息をしなければならないほど、僕は疲れていた。
「何事ですか!?」
その声は廊下にも響いていたのか、看護婦さんが血相を変えて病室に飛び込んできた。
「竜堂さん!?意識が戻ったんですね!」
竜堂?それが僕の名前か。だけど、僕はその問い掛けに答えることができなかった。
それを悪いほうに考えたのか、
「気をしっかり持ってくださいね!今、先生を呼んできますから!」
と言って、看護婦さんは来たとき同様、矢のように病室を飛び出していった。病室に静けさが戻った。いや、わずかだが聞き覚えのある声がする。
「…うっ…うっ…」
彼女が泣いていた。顔を上げたまま、隠すことも、何かに縋りつくこともなく。
青白い顔で、かわいそうなくらいその肩を震わせながら…泣いていた。