忘れてしまった君の詩-21
放課後。
白いベッドで覚醒してから初めて、僕は音楽室へと続く廊下を歩いていた。うちの学校は芸術科目が選択制で、僕は音楽ではなく美術を選んでいた。それも彼女と接点を持てなかった理由の一つだったりする。
『ラプンツェル』で英里先生と会合してからは二日が経っていた。
この日も生憎の天気。自然物も人工物も例外なく、明け方からの雨にびっしょり濡れている。
どうやら、この街にも平等に梅雨の季節が訪れてしまったらしい。
空から地上に視線を移せば、色とりどりの花々が咲いているのがわかった。
あの中には、先に帰るようにとお願いした、勇介や香織ちゃんのものもあるのかと思うと、なんだか妙に淋しい気分になった。
多分、学校に通うようになってからずっと、三人で下校するのが当たり前になっていたからだ。
そんなことを思いながら、僕は止まっていた足を再び動かした。
二人とも、驚いていたみたいだけど、僕に訳は聞かなかった。なんとなく、この間の話と関係しているのだと、感じていたのかもしれない。
今回のことが終わったなら、二人には全て話さなければと思う。例え、どんな結果が待ち受けていたとしても、だ。
辿り着いた音楽室からは、ピアノの旋律が聞こえてきた。曲名はわからないが、彼女が弾いていることだけは何故だかわかった。
メロディアスな曲調が段々と、強く、ダイナミックなものになっていく。
どうやら向こうも山場に差し掛かかろうとしているようだ。
僕は決心を固めるとノブに手を掛け、少しづつドアを押し開いていった。
二日前の『ラプンツェル』でのこと。
僕の質問に対し、英里先生の口から出たものは、やはり僕の想像していた通りのものだった。
すなわち、「僕と彼女は恋人同士だったのでは?」という僕に、先生は、
「ああ、その通りだよ」
呆気なく、事実を認めたのだった。
それはもうすんなりと、まるで明日の天気を聞かれたかのように、何でもなく。
途端、緊張で強張っていた体から、力が抜けるのがわかった。そのまま、背もたれに体を預け、僕は大きく息を吐いた。
「どうした?」
「いえ、意外と呆気なかったなと……もしかしたら、誤魔化されるんじゃないかと、これでも警戒してたんですよ」
先生の顔に意地悪な笑みが刻まれた。
「誤魔化してもらいたかったか?」
「そんなわけ、ないじゃないですか」
この人を敵に回したら、僕など相手にならないことは、今までの会話で十分過ぎるほど証明済みだ。
僕は潔く、頭を下げた。「ありがとうございます。本当のことを教えてくれて」
「嘘を吐いても何にもならないからな」
「でも、世間的にはマズい事でしょう?」
生徒と教師のカップル。公になれば、僕や彼女は疎か、その事実を知っていて告発しなかった先生もただでは済まない。
だけど、先生は僕の心配を鼻で笑ってみせた。
「バレたらバレたでまた面白くなるだけさ」
「うわ〜!格好いいっ!」 その勇ましさに、茶目っ気たっぷりに手を叩いてみるものの、
「……殺すぞ」
凄味のある脅し文句に、直ぐ様諸手を挙げた、龍麻君。
「それで?」
脱線しかけた話の流れを、先生は修正する。
「これからどうするつもりなんだ、お前は?」
その時、ちょうどよく店のBGMが変わった。
それまで流れていたジャンルがガラリ変わり、英語の歌詞で少年のような澄んだ歌声が辺りに響き渡る。
「この間、お世話になっていた病院に久しぶり行ってきたんですよ」
突然、何の脈絡なく、関係ない話を始めた僕に、先生は怪訝そうな顔をした。
「竜堂?」
「先生には一週間に一度、通院するようにって言われてたんですけどね。おかげで怒られること、怒られること……」
あの時は本当にマズかった。鬼の形相をした主治医に、『君は何を考えているんだね』とか、『私の話が理解できないほど君は馬鹿なのか』とか、散々に言われ、仕舞いには『こんなことをするようなら、もう一度入院してもらう』という医師の脅迫に、僕は泣く泣く、『次は必ず一週間後に来ます』と約束させられてしまったのだ。
そのことを思い出し、僕は思わず苦笑した。
「おい、りゅ……」
僕は先生の口の前に、人差し指を立てることで言葉を奪った。
「その時、聞いたんです。『僕の記憶が戻ることはありますか?』ってね」
そろそろ、僕の手を退けて先生が聞いた。
「何と言われたんだ?」
「『断言は出来ないが、可能性はある』と言われました。ただ、僕の場合は眠っていた期間が長かったので、その確立は極めて低いらしいですけどね」
天井を見上げた。型遅れのエアコンが、店内に籠もった湿気を一生懸命に吸い出している。
「だけど、可能性が少しでもあるなら……」
「お前はそれでいいのか?」
今度こそ、先生が割って入った。それを機に、僕は天井から目線を剥がして、先生と向かい合った。
「そういった考え方もあるにはある。だか、それは今いるお前を無視することにならないか?」
今日見た限りでは、一番強烈な視線だった。
僕の一挙一動、心の動きさえも見透かそうする目を先生はしていた。
僕は備え付けの小さなスピーカーを指差した。
「この曲の題名、知ってます?」
一瞬、意表を衝かれたように戸惑いながらも、先生は集中して耳を澄ませる。
やがて、
「そういうことか」
先生は苦笑を浮かべた。どうやら、僕の意図を汲み取ってくれたらしい。
「そういうことです」
僕もニヤリと笑った。
――LETITBE……すべてはあるがままに――
なんて、ちょっとキザ過ぎだったかな?