忘れてしまった君の詩-18
翌日は雨だった。しかも、主語の前に『バケツを引っ繰り返したような』が付く。
僕は窓を殴り付けるような、激しい雨音に目を覚ましたのだった。
時刻は七時半を少し回ったところ。
普段なら遅めの起床だが、今日は土曜日で学校は休みだ。幸い、我が家唯一の働き手である父さんも、今日は非番で起こす手間がないことは昨夜の内に確認済み。
僕はベッドから抜け出すと朝食を摂るため、一階にあるキッチンへと向かった。その際に、パジャマの上にジャンパーを羽織ることも忘れない。僕は自他共に認める寒がりなのだ。
雨のせいか、はたまた、風通しが良すぎるためか、ひんやりと寒いキッチンの中、僕は食パンをトースターに入れ、食器棚から取り出したマグカップに、並々と牛乳を注いだ。
うちの家族は、僕という例外を除いて全員、朝に弱い。多少、物音を発てたところで、誰かが起きだしてくるという心配もない。
小気味よい音と一緒に焼き上がったトーストを皿に盛り、バターを塗る。途端に食欲を煽る香りが、僕の鼻腔を擽った。
いつもならこれに、ハムエッグやサラダをおかずとしてつけるとこだが、今日ばかりは、やめておこう。せっかくの休日、自分だけの朝くらいのんびりしていたい。
食べ終わり、スプリングのイカれたソファーで朝刊の紙面を一通り読み終えた頃には、うちのネボスケ一号が起きだす時刻だった。 八時十分。案の定、姿を現した彼女は、リビングに僕の姿を見つけると、年期の入った笑みを浮かべた。「おはよう、龍ちゃん」
僕も朝に相応しい笑顔を返した。
「おはよう、おばあちゃん」
『年寄りは朝早い』という言葉もあるが、それは僕のおばあちゃんには当てはまらないらしい。
彼女はきっちり夜の十時に寝ると、翌朝の八時に起きてくる。その睡眠、なんと十時間。
もしかしたら、これが長生きの秘訣なのかもしれない。
おばあちゃんは僕の真向いに座ると、嬉しそうに言った。
「今日も早いねぇ、龍ちゃんは」
「そうでもなかったよ。おばあちゃんはぐっすり眠れた?」
「見ての通り、おかげ様でよう眠れたよ」
「それはよかった。朝食はどうする?簡単なものなら、すぐに作れるけど」
「そうだね……雅樹(父さんの名前だ)が起きてからにするよ」
「わかった」
僕は返事を聞くと、ソファーから立ち上がりキッチンから予め用意しておいた急須と湯呑みを運んできた。そのまま、湯呑みに緑茶を注ぎ、おばあちゃんに渡す。
「ありがとう。相変わらず、用意がいいねぇ」
「どうも。熱いから気をつけて飲んでね」
おばあちゃんは僕から湯呑みを受け取ると、息で少し冷ましてから、お茶を啜った。
「おいしい。龍ちゃんはいいお嫁さんになるねぇ」
僕は男だよ、おばあちゃん……。
九時五分前。
僕が先程のショックを未だに引きずりながら、キッチンで塩鮭と玉子を焼いていると、我が家のネボスケ二号が豪快な欠伸をしてリビングに降りてきた。
父、竜堂雅樹である。 父さんは頭をボリボリ掻きながら、おばあちゃんに朝の挨拶をすると、僕のいるキッチンへと入ってきた。
「おはよう」
そう挨拶した父さんの顎には、不精髭が伸び、寝癖で髪の毛があちこち跳ねている。
いくら休日で家の中だからって、だらけ過ぎだ。
僕はそんな父に嫌味を込めて、壁に掛かった時計を指差した。
「随分遅いおはようだね。今何時だと思ってんの?」
「うん?まだ九時じゃないか」
「『もう』九時なんだよ」
「そんな細かいこと気にするな。俺はこの雨さえなければ、あと二時間は寝たかったんだ」
それはあまりにも寝過ぎだ。
僕が呆れていると、父さんが周りを見渡し、言った。
「なんだ。また香織が最後か」
そうなのだ。この家で誰よりも遅く起きてくるのは彼女だった。
おばあちゃんが十時間、父さんが大きな音などで起きるに対し、香織ちゃんは誰かが起こしに行かない限りは決して起きない。
彼女の睡眠欲の前では、これくらいの雨音も、ちょうどよい子守歌くらいにしかならないのかもしれない。そして、そんな彼女を起こすのも、やはり僕の仕事なのである。
「しょうがない、僕が起こしに行ってくるよ」
流しで手を洗いながら僕が提案すると、父さんは冷蔵庫から取り出した缶コーヒーを一口啜り、真剣な顔をした。
「メシは?」
僕はキッと睨み付け、言ってやった。
「香織ちゃんが起きてくるまで、ヌき!」
僕の答えに肩を落とした、父さん。
その姿に威厳なんて言葉、微塵も感じられやしなかったね。