『異邦人』-21
「おかえり光、顔色悪いよ?どうしたの?」
数日後、バイト帰りにアパートの階段で会った留衣の最初の一言はそれだった。
「最近、レポートに追われて寝不足なんだ……」
留衣の質問に光はそう答える。けれど、本当の理由は別にある。眠れないのではない、眠りたくないのである。夢を見たくない……
それが本当の理由。
「体…壊さないでね。」
「ん、ありがとう。それより何でこんなところにいるんだ?留衣。」
「もうすぐ光が帰って来るかなぁって……エヘヘ」
「莫迦…ほら行くぞ。」
苦笑を浮かべながら光が言うと留衣は頷いて立ち上がる。けれど、そのまま体勢を崩すと階段脇にしゃがみ込んでしまった。
「どうした?」
「あは、足が痺れちゃった……。ゴメンね先に行ってていいから……」
「ほら、掴まれよ。」
留衣の片腕を首に巻くと、そのまま軽々と抱き上げて光はアパートの階段を昇って行く。歩を進めながら光は小声で呟いた。
「ばかやろ……こんなに冷え切っちまって……」
「え?何?」
「何でもねーよ。」
聞き返されて光は慌てて答える。そして留衣を抱きかかえたまま鍵を取り出すと光は扉を開けた。
「も、降ろして。大丈夫だから……」
頷いて留衣をそっと床に降ろすと光は軽く首を振る。
「しっかし、思ってた以上に軽いんだな留衣は…」
バキーンッ!!
頭の中で何かが砕ける様な音が響き、光は頭を抱えて蹲(うずくま)った。
『しっかし、軽い子だなぁ……っとそんな事言ってる場合じゃないな。』
(同じ台詞を前にも俺は……)
光の頭は激しく混乱していた。次々と覚えの無い記憶がオーバーラップしていく。起きている筈なのに何故?
夢じゃ……ないのか?
嘘だ!!こんな記憶なんて覚えていない!!
「光……大丈夫?」
パシッ!!
差し延べた留衣の手を光は反射的に振り払う。
「君は……誰だ?」
頭を押さえたまま、呻く様に光は言った。
「な、何を言ってるの?光。」
「こんな記憶、俺は知らない……。でも、この感触は覚えているんだ。なぁ、一体君は誰なんだ?答えてくれ。」
「言ってる意味がわかんないよ……」
詰め寄る光から逃げる様に留衣は後ずさる。自分を見る光の目……それは猜疑心に満ちた他人の目。今まで見た事のない、その冷たい眼差しに留衣は怯えた。
「何故、嘘を付くんだ?」
「嘘なんか!……」
そこまで言いかけて留衣は唇を噛み締める。
「なら何故逃げる?どうして怯えるんだ。君は俺をどうしようって……」
「違う!!あたしは!」
内なる衝動……光の言葉に思わず叫ぶ留衣。けれどそれは光の猜疑心を煽るだけだった。
「あたしは…何だ?言えよ、言いたいコトがあるなら全部言っちまえよ。」
「やめて!!そんな風に言わないで……。今は言えないの、だけど信じて光!あたしは……」
ダンッ!!
壁を叩く光のこぶしが留衣の台詞を断ち切る。
「君を信じろ?」
さっきから光は留衣を『君』と呼んでいた。その冷たい響きに留衣の瞳から涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい…光、本当にごめんなさい……」
唇を震わせながら、留衣は呟いた。光はこめかみに指を当てて空を仰ぐと溜息を付く。
「君に謝って欲しい訳じゃない……」
苛立ちを表すみたいに乱暴に頭を掻きながら光は続けた。
「俺だって信じたいんだ、本当は……。でも何も話さず、ただ信じろって言われて君は信じるコトが出来るのか?」
光はじっと留衣を見つめる。涙を溜めたまま、留衣は見つめ返す。ゆっくりと静かに開きかけた唇を留衣は再びキツく噛み締めた。
その仕草に光はフッと口許を緩める。
「それが君の答えか……。わかった……もう聞かないよ。ただ……」
光は静かにドアノブを回し、扉を開けた。
「もう君とは居られない。出ていってくれ……」
穏やかな言い方……けれど、その意味ははっきりとした拒絶……
留衣は大粒の涙を零し首を振る。
「声を荒げたくないし、力に訴えたい訳じゃない。だから、優しく言っているうちに行ってくれよ。」
それは淋しげな笑み……
そして哀しげな笑み……
光の脇を擦り抜けて留衣は扉の外ヘ出ていく。一旦、足を止めて光の方を振り返り、何も言わずに見つめると暗闇の中ヘ走り去った。