『M』-7
「うん。君の思う通り。許嫁とか、見合いとか、縁談とか、自分の知らないところで勝手に結婚相手決められるのって、あんまり面白い事ではないよ」
彼はふっと微笑んだあと、真っ直ぐに前を見据えた。
「でも、それが家の…いや、会社や企業、グループの為ならば、仕方がない事なんだって思える。それに、相手は綺麗な人でさ。面倒見が良くて、誰にでも優しくて…。だから、嫌って訳ではないんだ」
最後に照れながら笑う彼は、まるで恋人を自慢しているかの様で。
私はそんな彼から目を離し、そっと飲み干したグラスをテーブルに置いた。
そこへ、今までの高いトーンとは一変して、とても低く重い声が流れた。
「でも、駄目なんだ」
私は突然の変化に戸惑いつつも、顔を上げて彼の表情を見る。
するとそれは、とても哀しく冷たいものとなっていた。
「だから、今から断ろうと思ってるんだ」
その前の言葉も理解しきれずにいるのに、今の言葉でさらに混乱する私。
けれど、ただ一つとても気になった言葉にだけ、何とか反応する事ができた。
「今から?」
「そう。今から」
ずっと抱えていた疑問。
これから何処へ向かうのか?
その答えが見付かりそうな気がして、私はただそれだけを問い詰めていた。
「それは、今からその許嫁の所へ行くって事?私も一緒に?どうして?」
今までの疑問を一編に吐き出すかの様な質問攻め。
それでも、まだまだ訊きたい事は沢山あった。
けれど、彼の困惑した表情に気付いてしまった私は、これ以上言葉にするのを躊躇ってしまった。
止まる事なく進む車外とは裏腹に、この空間には再び沈黙が訪れた。
緊張にも似た息苦しい様なその沈黙を、静かに破ったのは彼だった。
「今向かっているのは、三越企業が運営するブランドホテルなんだ」
もたれていた背をゆっくりと浮かして、彼は続けた。
「そこで開かれてるちょっとした催しに、俺の両親と彼女の御両親とが出席して会食しているはずなんだけど、俺はそこで断ろうと思ってるんだ。結婚を」
一呼吸置いて、真っ直ぐに私の目を見つめる彼。
「ミキちゃんにはね、俺の結婚相手になって欲しいんだ」
一瞬、耳を疑うような言葉に驚いて彼を見返すと、彼は慌てたように説明を始めた。
「あ、違うんだ。結婚相手ってのはその場だけの嘘で、俺はこの人が好きだからごめんなさい。って断るための」
そこまで聞いて、私はやっと理解できた。
つまりは結婚を断るための『一日だけの恋人』が必要で、それを出会い系で探したのだと。
そしてそれが、たまたま私だったのだと。
「協力してくれるかな?」
一変して、申し訳なさそうに尋ねる彼。
協力?利用の間違いでしょ。
どちらにしろ、今さらだ。
ここまで仕立て上げられて、今さら逃げ出すほど私は馬鹿じゃない。
ヒロインだと思っていたのが、実は端役で、とんだピエロだっただけのことで。
「…ミキちゃん?」
申し訳なさそうな顔はそのままに、うつむく私の顔を覗き込む彼。
私はそんな彼へ微笑みながらも、願いを引き受ける意味も込めて言い放った。
「もう一杯頂戴。今度はワインをお願い」
道化師は、舞台を盛り上げるために存在する。