『Ｍ』-5
―彼の名は―
暫く私に見とれていた彼は、自分の腕時計と店の装飾時計がさしている時間に気付き、慌てて店の出入口へと向かった。
片開きの扉へと手を掛ける彼に
「支払いは？」
と聞くと、苦笑いしながら答えた。
「ああ、いいのいいの。ウチの店だから」
彼を成功した『青年実業家』程度にしか考えていなかった私は、その言葉と扉の外の光景に唖然とした。
先程まで乗っていた車の代わりに最高級の象徴であるリムジンがいて、そして車のすぐ側には、綺麗な黒長髪の青年が姿勢正しく立っているのだ。
まるでドラマや映画を観ている様で、そのヒロインを飾っているのが自分なのだという事も忘れ、私は扉の前で固まってしまった。
「どうしたの？」
困惑しているせいで店の扉が開いた事にも気付かず、中から出て来た店員の問掛けにビクッとしてしまう。
「い、いえ…」
少し不思議そうな顔をしたものの、すぐに納得した様な表情で彼女は言う。
「もしかして、彼が誰なのかも知らないの？」
彼女の質問に、彼の名前さえも知らない私は頷いて答えた。
「そう…。そのぐらいなら問題無いわよね。いいわ、教えてあげる」
今まで、ワタシを売った相手になど何の興味も無かったはずなのに、私はこれから語られる彼女の話を待ち望むかの様に真剣に聞いてしまった。
「彼の家はね、あの日本有数のトップ企業である三越グループ一族なのよ」
その言葉に、また私は驚きを隠せなくなる。
いくら社会的な事に無知な女子高生でも、『三越』の名前ぐらいは聞いたことがある。
それほど凄い家のお坊っちゃんと知り合えたのだから、普通なら嬉しがっているはずなのに、何故か私は恐怖感に襲われていた。
たぶんそれは、不意に訪れた未知への怖れなのだと思う。
せいぜい小金持ちのオジサン程度しか相手にしていなかったのに、突然、あまりにも掛け離れた世界の人が相手となってしまった事への脅威。
私はその事へ怖気付き、彼がもう車に乗り込んでいるにも関わらず、まだ彼女の横で立ち尽くしていた。
すると隣に立つ彼女がこちらを見つめ、綺麗な声で話し始めた。
「名は体を表すという言葉は、彼にピッタリよ。……三越優明、優しく明るいって書いてマサアキ。それが彼の名前」
彼女は彼が乗る車へと視線を移す。
「三越の人間ではあるけれど、彼は彼…優明よ」
同性でもドキッとしてしまう程の微笑み。
私はその微笑みと彼の名前が分かった事で、今まで感じていた怖さが薄らいでゆく様に感じた。
「そうそう、はいこれ。忘れ物よ」
告げられて渡されたのは、少し大きめの茶革のバッグ。
チャックを開けると、中に入っていたのは制服だった。
「明日からはまた、必要でしょ？」
今がたとえ映画のヒロインだとしても、日常の私はただの女子高生なのだという事を、バッグの中のそれと彼女の言葉は再認識させる。
「…はい」
私は小さく返事をして、チャックを閉じた。
そこへ後部座席の窓を開け放った彼が声を掛けてきた。
「何してるのミキちゃん。早く乗って。行くよ！」
急かされてやっと動き出した私の体。
足取りは重いながらも車に近付いて行くと、後ろから美声が届いた。
「頑張ってね！」
何の励ましかはやっぱりまだ分からないけれど、今日初めて逢ったはずの彼女の言葉は、今まで出会った誰の言葉よりも胸に響く。
私は振り返り、全ての感謝を込めて頭を下げ、そして車に乗り込んだ。