『M』-15
―抱擁―
暗がりの中、店内の片隅にある小さな段差の上で、彼は静かに膝を丸めていた。
まるで迎えの来ない子供みたいに、誰かを待っているようにも、うずくまって泣いているようにも見えた。
私はゆっくりと彼に近付き、手を伸ばせば触れる距離で立ち止まった。
やっと人の気配に気付いて、彼は慌てて立ち上がった。
「…あれ?どうして?」
視線が私の服装へと注がれている。
けれど私はそんなことは意に介さず放った。
「あなたって、ばかね」
突然の侮辱に目を丸くする彼。
やっぱり泣いていたんだ。
赤い眼には、まだ薄い膜が残っている。
「そんな辛い思いしてまであんなことして…。悪いのは向こうなのに。なんにも報われないじゃん。救われないじゃん。なのに、なのに」
言葉が詰まる。
ひきつって、うまく喋れない。
私の方がばかだ。
関係ないのに、自分のことじゃないのに、こんなにも切なくなるなんて。
「かっこよすぎるよ」
すっと温かなものが私を包んだ。
すぐには何が起こったのか分からなくて、次は私が目を丸くしてた。
でも優しい声が上から降り注いできて、私はキュッと目を瞑り、彼の胸から聴こえてくる心臓の音に身を委ねた。
「ありがとう」
「ううん。私は何も…」
「救われた」
白く輝く照明の下。
私のトクントクンと鳴る音と、彼のトクントクンと鳴る音が重なりあう。
今にも崩れてしまいそうだから、私達は支えあって立っている。
それが、弱くて嫌いだったのに。
今は、とても心地好い。
「…ごめん。もう少し泣いていいかな…」
彼が呟く。
本当は「ばか」なんて言うつもりじゃなかった。
私はつまらないピエロの役だけど、台詞違いかも知れないけれど、それでも私は、私は本当は、こう言いたかった。
「うん。よく頑張ったね」
言葉のあと、彼が泣いた。
辛い涙を溢し、彼女への想いを声にあげて、静寂な闇の中、私を抱き締めて泣き続けた。