『M』-14
男の子は女の子と手を繋ぎ、楽しそうに話している。
男の子が笑えば、女の子も笑う。それにまた、男の子が嬉しそうに笑う。
そんな幸せそうな光景に微笑みを浮かべて、彼女が囁いた。
「なにより、男の子は女の子を好きになったの」
極々当たり前のことだと思う。
男の子にとってみれば、女の子が天使に見えたって仕方のないことだ。
「でもそれなら、なんで彼は結婚を断ったの?好きなのに、なんで?」
私の問掛けを受け止めるかのように彼女は目を合わせ、話の続きを語って聞かせた。
「確かに彼は彼女が好きだった。けれど必ずしも、彼女もそうだとは限らない。今になってそのことに、彼は気付いてしまったのよ」
男の子は少年から青年へと成長して、女の子は立派な女性へと成長していた。
淡い想いも成長して、いつしかそれは恋心となっていた。
ただ、それを抱えていたのは男の子だけだった。
「彼女は大学に入ってある男性と知り合った。男の子がそうであったように、彼女もまた自分の世界観を変えてくれたその男性に惹かれてしまった。それは男の子には感じられなかった、立派な恋心よ」
天使だった彼女と知らない男が手を繋いでいる。
彼女が笑えば、男も笑う。それにまた、彼女は嬉しそうに笑っている。
二人の背を見つめたまま、青年はうなだれた。
誰よりも身近であるが故に、痛いほど彼女の気持ちが分かってしまう。
「でも、その歳になれば自分達の関係がどういうものかも理解している。彼女は苦しかったはずよ。どんなに好きでも、二人は結ばれない。あるいは、駆け落ちまで考えてたのかも知れないわ」
決められた未来。
私なら、その家に生まれたことを呪うしかできない。
「そして誰よりも苦しんだのは、紛れもなく彼だった。それこそ、自分の親が経営する店のしがない店員に、毎日相談しに通ってしまうくらいね」
彼女は哀しすぎる眼で、小さく微笑みを浮かべた。
どんなに好きになったとしても、相手は違う人を想っている。
結婚して時間が経てば、それも変わるかも知れない。
けれど一生、もう自分を見てくれることはないだろう。
なによりも、彼女を悲しませたくない。
優しすぎる彼だからこそ、きっとそれが耐えられなくて、人の何倍も苦しんでしまう。だから
「だから彼は、あたかも自分のせいにして、結婚を断った」
「そう。誰も彼女を責めないように…」
彼のもとから彼女が去った。
涙で離れて行く彼女の背を、彼は必死に笑って見送る。
そして残された彼は、一人、薄暗い店内でひっそりと佇む。
泣いてるのかも知れない。
私なら、まず間違いなく泣いている。
「ばっかみたい」
本当に、ばかだ。今世紀最高のおおばかだ。
好きな人の幸せのために、自分は身を引く。
それがどんなに中傷されようと関係ない。
やっぱり、ばかだ。
かっこつけのどうしようもないおおばかだ。
「美貴ちゃん…?あなた…!?」
私の顔を見て、彼女は驚いていた。
けれど、私はそんなことは気にも留めず彼女にお願いをした。
「上げてください」
はじめは戸惑っていた彼女も、やがて私の意図を察してくれてか、下ろすはずだった背中のファスナーをしっかりと上まで上げた。
「悔しいけど、あなたの行動力が羨ましいわ」
ふふと笑った後、彼女は口調を変えて言った。
「任せていいのね?」
私はその言葉に強く返事をした。
「はい」
「うん。頼んだわ」
ポンッと背中を叩かれた勢いで半歩前に出る。
それ以上に、彼女の言葉は私の気持ちを力強く後押しした。
私は振り返り、彼女への尽きないほどの感謝と彼女からの思いに答えるために深々と礼をして、そしてきびすを返し彼の待つ扉の向こうへと進んで行った。