飃の啼く…第3章-5
涙のあとがひりひりする。何度も擦ったせいで、多分赤くなってるはずだ。
いや。私は間違ってなかった。朝まで乗り切れば無事に帰れるし、それに、いったん言ってしまったものは戻せない。口に出したということは、頭の中にあったということだ。慎み深い嫁ではなくても、正直な嫁では有……
凍りつく。
せなかにけはいをかんじる
―――動けない。
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空気が変わった。
飃がさくらの匂いを辿って行く内にいくつかの路線をまたぎ、1つか2つの駅を通り過ぎた。匂いから、最初は疾走していた彼女が、だんだんとゆっくり歩きになっていったのまで感じ取れる。
匂いが徐々に濃くなる。もうすぐ追いつける、と飃が思ったその時に、空気が変わったのだ。
出現してしまった。さっきまでは一番出会いたくて、今は絶対に出会いたくないもの。
「やつだ。」
我知らず口走る。
そして、盾を背中にくくりつけ、薙刀を咥えて、走るのに最も適した狼の姿に変化した。
獣の単純な思考が、否、本能が告げる。
「あの子を失ってはならない。」と。
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逃げても逃げても追ってくる。後ろを振り返ることは禁じた。振り返ったら最後のような気がするのだ。でもなんで…
「何で、私を、追いかけるの、よっ!」
そうか、私にだって狗族の血は入ってるんだ。今までは純血種が横に居たから、目立たなかっただけで。
走りながら考え事をすると、足元がおろそかになる。地面に張り巡らされたコードに、足を取られて派手に転んだ。
「っつ…!」
そして私は、奴を見た。
そいつは、悪夢の中から出てきたような化け物だった。
目。
恐ろしく巨大な、目だ。
蜘蛛のように真っ黒な手足が、身体を支えている。
血走ったその「目」には、哂うためにだけあるような口があった。牙はない。歯もない、舌もない。三日月の形にゆがむ空洞があるだけ。
そいつは、私がもう逃げられないのを知っていた。足をくじいた私は、荒い息をついて、恐怖に見開いた眼でそいつを見ていることしか出来なかった。