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『料理になる前の野菜片たち』
【その他 恋愛小説】

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『料理になる前の野菜片たち』-1



例えば、温かなスープの味。丁寧に手入れされている、くわんとした形のスプーン。
恵子が前の恋人について思い出す時、まず頭に浮かんでくるのはそういったものたちだ。それから、彼のよく着ていた服を思い出し、それから何故か雨の日のイメージが浮かぶ。彼の顔が頭の中のスクリーンに登場するのは、その次になってようやくだ。
勿論、その順番はいつも一定というわけじゃないし、違うイメージが浮かぶこともある。ちゃんと真っ先に顔が思い浮かぶこともある。でも大抵はそうだ。
こういったことに、恵子は少し悲しくなる。自分が彼に対してもう何の未練も感情も持っていないということを思い知らされるから。彼は、思い出の地層の中に埋もれ、潰されて均一化され、周りに溶けていく。彼はもう恋人としての彼ではなくなり、ただの一つの出来事として、地中にささやかな居場所を持って、もうそこから動くことは無い。動くことができない。何と残酷なことだろう、と思う。あんなに愛していたのに。あんなに依存し、依存され、支えあっていたように感じていたのに。それが無くなった今、それなのにもう自分は何とも無く日々を過ごせている。こんなに簡単に、過去の自分や過去の彼を、どうでもいいものにしてしまえる。そんな自分が、なんとなく信用できない人間に思えてくる。
きっと、と恵子は思う。きっともし次にまた誰かを――そう、例えば、祐二を――愛して、それからいつか別れても、何粒かの涙といくらかの時間を消費するだけで、また簡単に日常に戻ることができてしまうのかもしれない。ただ、思い出がもう一つ追加されるというだけで。
「馬鹿みたい」
こんなことを夕実に話したら、彼女はきっとそんな風にあしらうだろう。
「いいじゃない、それで」
と。
さらに夕実の機嫌がいい時ならば
「恵子は思い出にも優しいのね」
と言うだろうし、機嫌が悪ければ、
「恵子はいつもネガティブな方向に考えすぎるのよ」
と言うだろう。神経質そうに眼鏡のブリッジを押さえながら。
恵子は、夕実のことをある意味で尊敬している。とても現実的で平均的な人間だからだ。平凡というわけではない。この場合の平均というのは、調和と言い換えられるようなものだ。安定しているということ。夕実は、過去と未来なら未来を取るし、現実と非現実なら現実を取る。きちんと現実を生きているのだ。恵子はそういった意味ではどちらかといえば非現実的な人間であるから、夕実のそういう現実感というものがとても安心する。
祐二は、夕実の高校時代からの友達だった。
それほど人付き合いの良くない恵子の友人関係に、顔の広い夕実の友人関係が影響することは多い。恵子の人間関係は、友達の友達といったようなものがほとんどだ。だから、本当に仲のいい友人はそれほどいなく、知り合い以上友達未満といった程度の関係ばかりになる。しかし、祐二はその中でも数少ない、それ以上に仲が良くなった人間だった。祐二の言葉にはいつも裏表が無いということを、恵子はもう知っている。祐二はいつも正確に率直に自分の心情を言葉に変換する。それらは本当にそれだけの意味でしかない。だから恵子は祐二と話すととても落ちついた。行間を読むとか、言葉の裏に隠された二重の意味を探るとか、そういう、他の人と話す時にはしなければならないちょっとした煩わしい行為をしなくてもすむから。

朝起きてから15分間、恵子はいつも布団にじっともぐったまま何かを考える。考えることはなんでもいい。昨日の出来事、今日の予定、綺麗な思い出について、未来の予感について。この行為のことを恵子は、試運転、と呼んでいる。頭の試運転。これは中学生の時に担任の先生から教わったことで、その先生曰く「脳は毎朝新しく生まれ変わるから、その度に新しい脳がきちんと動いてくれるかどうか確かめてあげなくてはいけない。」のだそうだった。幼かった恵子はその言葉を愚直に信じ、次の日から目覚まし時計のアラームを15分早めて設定し、布団の中で頭の試運転をすることにした。脳が昨日からずっと変わらないものであるということに気付いたのは、高校二年の時、定期テストの勉強のために初めて徹夜をした時だった。それでも、試運転の習慣は惰性として今でも続いている。一度定まった習慣や規則といったものは、何か理由が無い限り――ある場合には、何か理由があったとしても――中々変えることができないものなのだ。今日恵子が思い浮かべたことは、思い出というものについてと、夕実と、祐二のことだった。


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