約束の丘-1
電車から降りて、既に数時間が経過していた。昔はその場所に辿り着くまで一時間もかからなかったはずなのに。
「はぁ」
老婆はひとつ、深呼吸をした。
そして六十二年ぶりに、その丘を見上げた。
あれから多くの出逢い、別れを繰り返してきたけれど。
皺くちゃの老婆の頬を、涙が伝う。
「やっぱりここに帰ってきちゃいましたよ」
言うことを聞かなくなったその足で、大きな大きな木のそびえたつ丘の上に。
ひとり、向かう。
そこから見える景色は、あの頃とは随分と違う。見上げれば、空の青。
「なんて平和なんでしょう」
もし、今という時代に私たちが生まれていたのなら。
カツさん、そう考えるのは許されないことなのでしょうか。
大木の下に腰を下ろし、とても懐かしい日々を思う。午後の暖かい陽射しが老婆を包む。
目を閉じる。そして、静かに語りかける。
『カツさん、あなたの言った通り、私は結婚をし、子を産み、育て、自分の幸せを抱いてきました。子は私の手を離れ、夫は先日、先立ちました。残された僅かな時間は、やっぱりあなたと過ごしたいと思うのです。奪われた青春時代に今、帰りたいのです』
優しく風が凪いだ。
今、この瞬間になら死が訪れても良いと思った。
それくらい穏やかな陽だまりの中で、老婆は眠りについた。
青年は時計を見ながら、その丘に向かった。
約束の時間まで二十分以上あった。今にも泣き出しそうな表情で、大木が目印の丘に着いた。すると先客がいた。こんな寂れた片田舎の丘のうえで、老婆が幸せそうに寝ていた。
もう一度時計を見る。
あと二十分もすれば、彼女がここに来る。
結論は、まだ出ない。
落ち着かなく青年は木の周りをぐるぐると歩く。
「どうしたんだね、せわしないねぇ」
すると何時の間に起きたのか、老婆が話し掛けてきた。
「あ、起きてたんですか、すいません」
「そりゃ起きるに決まってるよ。生きてるんだから」
死んでると思ってた、とは口には出せない。
「人と待ち合わせてるんですよ、ここで」
「ほぉ、彼女かい?」
「まぁ。そんなとこです」
青年は尚もぐるぐると回り続けている。
「それにしては浮かない顔だねぇ」
「いろいろあるんですよ」
「いろいろねぇ」
老婆は意味ありげに目を細めた。
「いろいろです」
青年はみたび時計に視線を落とした。
「修羅場かい?」
「プチ修羅場です」
意味ありげに目を細めた。
「ぷち・・・修羅場ねぇ」
老婆は携帯ポットからお茶らしきものを注ぎ、ずるりと飲んだ。
「ぷち・・・・修羅場ねぇ」
何かを詮索するような間が空く。耐え切れずに青年は切り出した。
「はいはい、分かりましたよ。言えば良いんでしょ」
青年は、老婆の横にどかっと腰を下ろした。
「彼女がね、この田舎を出て行くんですよ。そんでね、東京に行くっていうんですよ。東京ですよ、東京!!」
赤い顔で熱弁を振るう青年に、老婆はお茶を勧めた。ずるりと音を立てて、そのお茶をすする。そして思い出したように、また顔を赤くする。
「俺はねぇ、この街から一歩だって出たことがないんだよ。そんな大都会に行けるはずがないさ」
「それで、別れるんかい?」
「それは、その・・・」
言葉に詰まって青年は空を仰ぐ。それは何かを堪えているようにも見えた。つられて老婆も空を見上げた。この丘から見上げる、その透き通るような青に違和感を感じた。寂しさを感じた。孤独感を感じた。それ以外の、口では言い表わせないような感情が込み上げた。
「ねぇ」耐えられず老婆は言った。
「これからの人生にはもう何も無いと分かっていても、私たちは生きていかなければならないのかねぇ」
青年には理解できなかった。だから何も言えなかった。
「ひとつ、話をしてやろう。これは遠い昔の話だよ」