約束の丘-3
「この丘だね」
青年は言った。
「あぁ、そうさ。この丘だよ」
老婆は答えた。視線は何処までも続く青の色。
「平和だねぇ」
その呟きに、青年は色々な含みを感じ取った。
六十二年間、待ち続けているひとがいるという。
気が遠くなるほどの年月を越えてなお、想いは果てず。
老婆は言った。
「これからの人生にはもう何も無いと分かっていても、私たちは生きていかなければならないのかねぇ」
青年には、まだ分からなかった。老婆はその問いを、何百回も、何千回も、何万回も繰り返してきたのだろう。けれど答えには辿り着けないでいる。青年は言った。
「けれど、おばあちゃんは生きてきたんだろう?」
そう、それが答えなんだ。
どんなに残酷でも、僕たちは生きていかなければならない。
それが生を賭して戦った故人たちへの、弔いだろう。
頬をひとつ、風が凪いだ。
老婆は思う。
きっと私の人生は、あの時の僅かな風でばらばらに散らばってしまうような儚い青春時代に収束された人生だったのだ、と。
だからその後の人生には、何の価値も無かったのだ、と。
それは夢の終わり。
祭りの後の寂しさにも似ていて。
けれど私は生きてきた。
夢の終わりには現実が待ち受けているように。
祭りの後には日常が続いているように。
愛するあなたのいない先にも、限りない道がある。
「そうだね、そうだ。あんたの言うとおりだわ」
言って老婆はゆっくりと立ち上がった。
丘の下から彼女が息を切らして走ってきた。約束の時間は過ぎていた。彼女は涙を流しながら、丘を上る。その様子を見ながら老婆は言う。
「一度出会ってしまえば、私たちは二度と離れることは出来ないし、一度離れてしまえば、私たちは二度と出会うことはできないのよ」
「でもいつかどこかで、ばったり会うこともありますよ」
「それはあるでしょう。けれどその時の彼女は、今の彼女ではないのですよ」
きっとそれは正しい、と青年は思う。
「人は出会いと別れを繰り返す生物。けれど決して離れてはいけない人が、必ずいるものです」
老婆はゆっくりと丘を下る。まるで舞台の袖にはけるように。
入れ替わりに彼女がやってくる。そして舞台の中央に。
僕にとって、離れてはいけないひとはきっと彼女なのだろう。
おばあちゃんにとって、離れてはいけないひとは一体誰だったのだろう。
「後悔するには、人生は長すぎる。・・・長すぎるねぇ」
老婆の言葉に、青年は空を仰いだ。
無限に広がる一面の青。
むかし、戦争という時代がひとつの男女を切り裂いたという。
ならばこの平和な時代に、一体何が僕たちを引き離すのだろうか。
半世紀以上、想い続けたひとがいる。
僕はいつまで愛し続けられるだろうか。
分からない。
分からないけれど。
今はただ、君を離したくない。
これから辿る、そのうんざりするくらい長い道のりを。
願わくば君と共に。
老婆は丘の下から、ひとつの男女を見上げた。彼らはきつく抱擁していた。そこにいつかの姿を重ねた。六十二年たった今も、抱き合った感触を覚えている。
『生きろ』と彼は言った。
だからやはり、私は生きなければならないのだろう。
そこに何も無いとしても。
多くの願いを背負って。
人は生きなければならないのだ ――――
約束の丘 end