夏〜第二章〜-5
「ま、とりあえず気が済むまでうちにいてくれ、娘もあんたの事えらく気に入ってるみたいだし。それに食べ物も不味いながらも出すからよ」
「もう明日から作りませんから!」
萩さんが、怒ったように頬を膨らませて、旦那からソッポを向いた。
それらは、あまりにも俺の日常とは掛け離れた、ごくありふれた日常的な光景だった。
見ているだけで笑みが毀れる。
本当の幸せは、見知らぬ他人をも、幸せにさせるという。
ならばまさにこれだろう。
だからといって、別にこの中に入ろうとは思わない。
ただ見守るだけで、俺には充分過ぎるからだ。
いや、鬼である俺にとっては、それすらもおこがましい。
だから、怪我が治り次第、出ねばなるまい。
でなければ、もう二度と修羅の道に戻って行けそうもない。
それに彼らに迷惑だ。
その幸せを俺はいつ壊してしまうかわからないから。
「そういえば小僧、名は?」
俺の名。
何だったろう。
幼少期、俺の名は『餓鬼(がき)』だった。
そして、元服して俺は『鬼』と呼ばれた。
それ以外の名前で呼ばれた事は、ない。
「百地宗市(ももちそういち)」
仕方がないので、父の名を名乗った。
さすがに人前で鬼です、と名のれるほど恥知らずではない。
「宗市か。いい名前だ」
「で、旦那の名は?」
旦那はしばらく頭を捻り、それから苦笑いをした。
「旦那は旦那でよろしく頼む。ちょっと言えないわけがあってな」
公平じゃない、と言おうと思ったが、こっちだって偽名なのだ。
それに命の借りもある。
だから敢えて何も言わなかった。
「わかった。よろしく旦那」
「あと女房と娘の名前は……」
「萩さんと撫子だろ」
そう俺が言うと、母娘は、お辞儀をして挨拶した。
「もう言ってたか」
ペロリと舌を出し、旦那は豪快に笑った。
お世辞にもその笑いは、美しくも可愛くもなかった。
いやむしろ気持ち悪かった。
どうやら撫子はかなり萩さん似のようだ。
どんな日にだって夜は訪れる。
あの後、だいぶ会話も弾み、珍しく俺としてはだが、たくさん喋った。
おそらく、彼らが聞き上手であったからだと思う。
そうでもなければ、俺があんなに話せるはずがない。
俺は幼少期からほとんど、仕事以外の話は、話さなかったくらいだ。
実際ほとんどは聞くに堪えない話だったろう。
そんな話を熱心に聞いてくれるとは、本当にいい家族だ。
だが、魚の小骨のように何かが引っかかる。
名、そう『萩』という名。
それは、どこかで聞いた事のある名だった。
それもとびきり重要な名だ。
それに、名といえば、旦那の名もだ。
なぜ彼は名乗らないのだろう。
名乗らない理由はなんだ。
はっきり言って検討もつかない。
まあいい。
よくよく考えれば、別に知ったところで何か変わるわけでもなかった。
何も変わりはしない、ならば知る必要はない。
知的好奇心は、忍びにおいて無駄な物だ。
実際、そのせいで、深追いし過ぎて命を落とした仲間も少なくない。
だから、深く考えずに寝よう。
睡眠を妨害するように夏虫は鳴く。
一生に一度の短い夏を愛し嘆くように、かみ締めるように。
涼しい風が吹き抜けた。
夏は始まったばかりだというのに、夏虫はそれでも鳴き続ける。
暗い視界を音で、満たし続ける。