絶対零度の世界-1
僕はもう一度、腕時計に目を落とした。
待ち合わせの時間からまだ十分ほどしか過ぎていないのに、彼女は店を出て行った。そして二度と、僕らは会うことがないのだろう。
頼んだばかりのブレンドコーヒーを口にする。
もう少し粘った方が良かったのだろうか?
さっきまで彼女が座っていた向かいの席には、ミルクティの湯気が揺らいでいる。
半年付き合ってきたのに、別れ話が十分ってのは変だっただろうか。
僕は窓の外に視線を向けた。柔らかに照りつける日差しに、心が躍った。
「別れた?」
小山は予想以上の反応を見せた。
「静かにしろよ、講義中だぞ」
小さな声で小山に諭す。
「だってお前、うまくいってたんじゃないのか?」
「ん、たぶんね」
「じゃあ、なんで?」
僕は机に肘をついて、教授の独り言のような教鞭をみながら答える。
「なんでかなぁ」
「何て言われたんよ?」
聞かれて思い出す。
僕が席に座るなり、彼女は「別れよう」と切り出した。
「付き合ってみて分かったわ。あなた、何ていうか、おかしいよ」
近くにいたウェイターにブレンドを注文した。その様子を彼女は冷めた目で見つめる。
「私には、あなたの考えていることが分からないの」
「他人の考えなんて分かるはずないよ」
僕は反論する。
「僕だって君の事を全部理解できるわけじゃない」
彼女のもとにミルクティが運ばれてくる。ウェイターは迷惑そうに、僕の顔を見た。
「そういうことを言っているんじゃないの。最初は、あなたが優しそうだったから好きになった。実際、わたしの周りでもあなたの評判は良かったわ」
けれど、と彼女は言う。
「けれど違ったの。あなたは違う。私たちとは、違う。とても冷めた人だわ。近づけば近づくほど、あなたの異質さを感じた」
異質・・・・。
うまいことを言う。
「残念だよ。君のことを好きなのに」
「嘘はよして。あなたは誰も愛せない」
そう言うと、彼女は席を立った。まだ僕の頼んだブレンドすら届いていなかった。
「私たちは、体温が違いすぎたのよ」
最後に言い残した言葉だけが、こころの表面に張り付いた。
「僕が冷たかったんだってさ」
そう言うと、小山は「そうか」と頷いたきり黙ってしまった。
「何だ、慰めのひとつも無いの?」
なぐさめ?と小山は疑問符つきで言う。
「慰めるほど傷ついてないだろ、お前」
なるほど、と僕は思う。確かに僕には、何の感情も表れなかった。泣き出しそうな彼女の表情も、哀れみを込めた彼女の言葉も、二人で紡いだ多くの過去も、僕に傷一つつけることすら出来ない。
ほら、もう彼女の名前すら思い出せないじゃないか。
うんざりする。感情が人を形づくっていくものだとしたら、僕は。
胸に手をやる。
トク、トク、と。
鼓動だけが響いている。
生きている証は、それだけ。
ただ、それだけ。
いつからか、僕は未来を見据えなくなった。
世界は単調で、そうあるように誰かが定めたからだ。時計は一回りすれば同じ位置に戻るし、太陽は一日過ぎれば同じ場所に昇る。それは地球が地軸について自転しているからで、だから僕らは同じ空間に落ち着くということだ。どんなにもがいても、結局はスタートラインに立ち帰ってしまうのは、だから当然の結果である。
それは精神に対しても同様で、それならばいっそ感情の起伏など必要ないのかもしれない。
そんな下らない世間話を、酒を交えながら友人としていた時のことだ。
「あんた、それ間違ってるよ!」
それは友人の友人が連れてきた女友達、つまりは僕の全然知らない子だが、その彼女が発したものだった。
「うまく説明できないけど、そんな考え方は寂しいよ」
アルコールで顔を紅潮させながら、彼女は呟いた。
寂しい、と見知らぬ女性が言う。
僕には理解できない。
何が寂しくて、何が悲しいのか、僕には分からない。
知り合いが勝手に知り合いを呼んで、ほとんどが他人のような飲み会の場で、僕とその女性の間の空気だけが妙に重くなっている。そんな事には我関せずといった雰囲気で、酒盛りは続く。
女性は「気持ち悪い」と言って店の外に出て行った。僕も続いて外に出た。彼女の容態を気に掛けたこともあるし、そろそろこの無意味な晩酌もお開きにしようと思っていた頃だ。