『名のない絵描きの物語〜黒猫編〜』-1
黒い猫が歩いて行くのが見える。 首輪もついていない猫で、キズついた耳が印象的だった。
回りを気にする事なく威風堂々と歩く姿を見て、僕は少し羨ましく思えた。
僕もあんな風に堂々と、彼女に想いを打ち明けられたらな。
赤みがかった空に猫は、自分を精一杯主張する様に叫んでいた。
僕の中で、何かが弾けた気がした。
◆ ◆ ◆
不思議な猫を見た。
まぁ猫から見た自分も不思議にうつってはいるだろうが、とりあえず不思議な猫を見た。
耳がキズついており、人を見る眼はギラギラと光り、その眼には“憎しみ”と言う名の感情が込められている様に見えた。
通りの向かいに座る僕にも、時折視線を向けては敵意を伝えて来た。
哀しい感情に満ちた眼。
僕はスケッチブックを取り出しそれを写す。
こちらに気付いた黒猫は、こっちに顔を向け動かず、絶えず僕の眼を睨んでいた。
僕は哀しい眼の持ち主に問う。
『なにをそんなに怯えてるんだい?』
◆
とりあえず眼が離せずにいた。
猫に話しかける人がいる。 別段、不思議な事ではないが彼は“会話”をしてる様で少し気になった。
猫と会話をする男。
なにかの童話の様な存在が、寸分狂わずそこにいる。 とても自然に、かつ確実に。
不思議に心を奪われたのはたぶん僕の心が病んでいたためで、いつもの僕なら気にも止めないだろう。
実際かなり異質だ。
しかし何故かそれが自然に見える何かが彼にはあった。
スケッチブックに描いているのはたぶん猫だろう。 うっとうしく伸びる前髪の間から、描かれた絵を確認する。 スケッチブックには真っ直ぐこちらを見つめている黒い猫が大人しく描かれていた。
なにかを睨みつける哀しい眼。
僕は何故か、それを見て泣いた。
◆
あぁなるほど。
僕は何回目かの相づちを打つ。 哀しい猫が語る話を懸命に聞く。
初めて聞いた音が思ったより静かだった事。
この眼にうつった何かを丁寧に断って来た事。
いつもなにかに怯えて生きて来た事。
四肢を動かすたび訪れる不快感と共に歩んで来た事。
人間が嫌いになった事。
けれど、僕は嫌な感じがしない事。
母が死んだ事。
人間に母を殺された事も。
余す事なく全て頭に入れる、絶えず手は動かしながら。
一つ話を聞くたび絵は命を持つ様で、僕の中でも新しい体験だ。 猫はまだまだ語る。
この町が4番目に訪れた場所だという事。
最近、夢を見る様になったという事。
夕暮れに歌うのが好きだという事。
僕と話せるのが不思議に嬉しい事。
さっきから身体を動かそうとしているが上手く行かない事。
夢に現れるのがいつも曖昧な母だという事。
自分には名前がないという事も。