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『名のない絵描きの物語』
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『名のない絵描きの物語〜黒猫編〜』-5

『田中には選ぶ権利がございません。 愛する方もおりませんし、大切な方もおりません。
田中なんかと比べてはいけないのでしょうが、選べる事はとても大切な事だと思います。』
涙が止まらない。
決して止めたい訳ではないが。 頬をつたい口元へ流れるそれは、以前とは違う味がした。
確かにあたたかさを感じた。
『上手くは言えないのですが、田中はそう思います。
恐らく猫サンもそう思っていたはずだと思います。 猫サンや田中の様に、流れてはいけません。 確固たる権利があるのは素晴らしい事です。』
田中サンはそう言った。
僕の心は妙に静かになったのがわかる。 田中サンの魔法。とてもあたたかいそれは、しかしずっと聞いていてはいけない気がした。
『しかし、選ぶ権利を使う時、決して迷ってはいけない気もします。
選ぶのなら覚悟を決めて。それが想い人への誠意にもなるはずです』
自分の強さを持つ。
自分の強さを持つ事を選ぶ。

どこからか猫の歌声が聴こえてくる気がした。


◆ ◆ ◆


ひどく抽象的な話しになってしまった。 伝えたい事がちゃんと言えたかかなり不安だ。
それでも少年の眼には光が戻って、涙は次の後悔の時まで顔を潜める様だ。

足元で猫の鳴き声がする。
見ると、さっきの耳の切れた猫サンが頭をすりつけ鳴いていた。

夕陽が沈み行くのを一緒に見送った。

『どうでしょう?猫サンも一緒に行きませんか?』
猫サンはゆっくり、ニャ〜ゴと鳴いた。



田中サンは行く様だ。
さっきまで何処かに行っていた猫も戻って来て、田中サンの頭に乗っている。 えらく気持ち良さそうだ。 どうやら、あそこを定位置に決めたらしい。
大きなアクビをしながら夕陽の落ちた方向を向いている。
田中サンはと言うと、さっきまで描いていた絵をスケッチブックから破りとり、丁寧に束ねていた。
それをこちらに差し出して言う。
『これを貴方にプレゼント致します。 どうぞ受け取って下さい。
たぶんですが田中の話は、心の内を決める事は出来ない物だったでしょう。申し訳ありません。
まだまだ迷う時間は長いと思います。ですが、そんな時はこの絵を見て下さい。
猫の眼が悲しみを憂いを帯びる時、貴方の心は迷いに満ちてます。
猫の眼が光を持つ時、それが恐らく選ぶ権利を使う時。
曇りなき眼で決心した行動には、なにかしらついてくる物です。
できればそれが、貴方にとって、後悔の残らない物だという事を願って。』
僕は深く頷いた。
猫はしっかりとこっちを向いて、がんばれって言った気がした。 僕はとりあえず、ありがとうと言っておいた。
『じゃあ田中は行きます。 また会える事を期待しまして』

ひょこひょこと歩きだした田中サン。 頭には麦わら帽子に黒猫
帽子の揺れが猫によっておさまっていたのが、妙に可笑しかった。
たまに猫がずり落ちそうになるのを、田中サンが支えていた。

猫の歌声が聴こえてきた。


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