人魚姫-1
季節は夏。
誰もが恋だの愛だの得体の知れない幻想に胸を躍らせる。
俺の一番嫌いな‥‥夏。
じめじめとした不快な湿気と耳障りな蝉の声に気力を奪われ、机に積まれたファイルから、現実から逃げるように立ち上がった。
資料室の前にはフェンスを挟んでプールがある。
見てるだけで涼しくなるような水面が眩しく光る。
この資料室の家主、真中遼26歳。一見、ホストにも見えるほど整った顔立ち。襟足が少し長く、やわらかくセットされた髪。ノンフレームの知的な眼鏡。担当教科は生物。よって白衣着用。よく先生と生徒の禁断の恋愛などの漫画に出てきそうな風貌である。
しかしそれはやはり漫画であって現実ではありえない。言い寄ってくる生徒は多いが真中は相手にしない。
しばらくしてまたファイルに目をやる。
今日中には、と思っていたが終わりそうにないほどの高さがある。
ため息をつき、煙草に火をつける。
灰皿には既に役目を果たして燃えつきた残骸が恨めしそうに体を折っていた。
ため息ついでに煙をはく。一番上のファイルを手に取り、ぱらぱらとめくる。
4月に赴任してきて、早くも3ヵ月が経とうとしていた。梅雨も明け、本格的な夏が近づいてきた。
そんな季節に彼女に出会った。ちょうどまた現実から目を逸らしたとき――。
夏の日差しに反射した、いつくもの輝く水しぶきをあげながら彼女は水面から現われた。
額や顔につく髪を両手で掻き上げ、水面をかく。
「人魚みてぇ‥‥」
思わず口にしてしまった。しかも彼女はよく見ると制服のままだった。
真中の腕時計は14時を過ぎたあたりを指していて、本来ならまだ授業中だ。
一応、自分は教師であるという自覚はあるが、この暑さのなか外を歩くなんて考えただけで眩暈がしそうだった。
少し考えた挙げ句、窓を開けて声をかけた。
「おい、授業中だろ。何してる。」
すると彼女は振り返り、口の端を少し上げ微笑んだ。
その妖艶な笑みに真中は煙草を落とした。
とても高校生とは思えない色気を携えながら、彼女はまた潜る。
しばらく真中はその一連の流れるような動作に見惚れていた。
しかし一向に彼女は水面から顔を出さない。
「まじかよ‥。」
人間が水中に潜っているにはさすがに長い時間が経っていた。
慌てて白衣を脱ぎ、眼鏡を置いて、窓から身を乗り出しフェンスを登る。
プールを覗くと彼女はまだ水の中にいた。
勢いよく飛び込み、水中で靴を脱いだ。水を精一杯かき、彼女のもとへ辿り着く。
するといきなり水面から白い腕が現われ、真中の首の後ろを掴む。
驚く間もなく、そのまま水の中へ連れていかれた。