トリニティ-2
一人で歩く帰り道は日常を壊すどころか、昨日とすらなんら変わりがない。
コンクリートの溝に押し込められた川は降り続いた雨のエネルギーを持て余して濁りきっている。
久しぶりに見た太陽は必要以上に元気で、無駄になった罪悪感を当分出番のない北風と一緒に笑っている。
紛れもない日常。
予定に逆らったところで渦に飲まれるだけなのだ。
学校から家に続く2本の道はどれも同じ形をした橋で等間隔に幅の狭い川を跨ぎ、梯子を作っている。
それぞれの間隔は百メートルあるかないかで、明らかに作りすぎの様相である。
駅から遠いとは言え都心ではあるから、車の便が良いことに越したことは無い―と言うのは表向きの理由で、実のところあの橋が渡しているのは2本の道ではなく官僚とゼネコンの銀行口座なのだ、とは自身が道路族である父の弁だから多分間違いないのだろう。
家と学校は川を挟んで居るので、必ず一度は川を渡らなければならない。
数ある橋からどれを選ぶかは帰り道だけに許された楽しみだ。
川は緩やかに弧を描いて作られて居るから、行きはインコーナーに当たる家側から行かなければ毎朝ギリギリに登校する僕は遅刻してしまう。
今日は梯子の中段にあたる橋を選んだ。
橋と道との交差には一方通行と一時停止のマークが付いたカーブミラーが着いている。
ミラーを見ながら角を曲がると鏡の湾曲も手伝い反射角が鋭くなって橋の下が少しだけ写るのである。
写るといっても普段はコンクリートの壁と陰になった川面が見えるだけだ。
しかし今日は紺の制服姿の少年が鏡の中にいた。
僕は一瞬目を疑った後、慌てて川岸のフェンスに取り付く。
腰高のフェンスの下には極太のかすがいの様な物が梯子状に連なっていて、少年が立っている足場まで続いていた。
これを伝って降りたのだろうか。
見れば一段高いところに制服と同じ色の手提げ鞄が置かれている。
背伸びして取ろうとする少年は非常に危なっかしい。
見かねて声を掛ける。
「おーい、大丈夫か?」少年は帽子の鍔越しにこちらを見上げた。
「大丈夫です。」
少し上気した顔は笑みを浮かべながらも焦りを見せている。
少年の手は鞄に届きそうにない。
「危ないぞー。とってやろうか?」
「大丈夫です。あとちょっとですから―」
小さな川とはいえ流れは急である。落ちたら助ける自信がない。
半ば仕方なく足元に転がっていた、少年の物であろうランドセルの脇に鞄を置いてフェンスを乗り越える。
―思ったより高い。
溺れる息子を助けようとして死ぬ父親を連想しながら硬い梯子を降りて少年に奥に行くよう目で合図する。
尚も自分で取りたそうな目で鞄を見ながら、少年は立ち位置を譲った。
背伸びする迄もなく鞄に手が届いてしまう。
今更少年が小さい事に気づく。
「ありがとうございます。」
そういって頭を下げた少年に鞄を渡そうとして思い留まった。
鞄を持って登らせるのは危ないだろう。
「先にあがりなよ。もって登ってあげるから。」狭い足場をゆっくりと後ずさると、少年は一瞬期待を裏切られた様な顔をした後梯子に手を掛けて登りはじめた。
いじわるで言っている訳ではない。
それにしても何故あんな所に鞄が置かれたのだろうか。
前髪の揃った大人しそうな少年の顔は「イジメ」のフレーズを予感させなくもないのだけれど。