無名の伝記-19
「言わなきゃいけない事があった。」
「え?」
息を切らしながらエバンは近づいてくる。その表情はどことなく清々しかった。荷物も何も持たず、空いていた手でセリカから火のついた煙草を奪い取り地面に落として踏み付けた。
煙草を吸っているのを見られてしまったセリカは、後ろめたさからますます何も言えなくなってしまった。思わず目を逸らしてしまう。
「やっぱり吸ってたな。」
ため息混じりに吐かれた呆れた声はセリカを小さくさせた。火を消した煙草を拾い車の中の灰皿にいれる。ドアを閉めた後エバンは背中でセリカに語りかけた。
「セリカ、オレさ。」
俯いていた顔は逸らしたままだった。しかし間をあけても綴られない言葉にセリカは思わずエバンの方を見た。いつのまにか振り返りセリカを真っすぐ見つめる目、彼女は動けなくなってしまった。
「お前が好きなんだ。」
時が止まった気がした。思考が止まった時に初めて気付く、世界はこんなに音に溢れていたのだと。風の音も鳥の声も虫の声だって、やけに耳に響く。
それでもエバンの言葉には適わなかった。
決して逸らされることのない目、強い眼差し。風が彼女の髪を揺らした。何度も何度も小さくは揺れ、彼女の周りを踊る。
困惑している訳ではない、悲しむわけではなく笑うわけでもなく、ただ真剣な表情で立っていた。エバンを見ていた。
「お前が好きだから、ずっと傍で守ろうと思ってたし、支えていこうと思ってた。」
それはセリカの心の叫び、ずっと傍で守ろうと思ってた。
「幸せになってほしかった。」
ただそれだけだった。初めて守りたいと思える相手と出会えた、共に生きてゆけた。生きる喜びを感じられた。
「私は幸せだった。」
寂しげな顔でセリカは呟く。
エバンと過ごした日々を思い返せば思い返すほど、その時は気が付かなかった彼のやさしさが見えてきた。
あの冷たい瞳が優しく笑い手を差し伸ばしてくれる。まだ不完全な手、これからの未来への可能性に溢れた人。それでも十分に彼は人間として素敵だった、大人だった。
「不思議ね、嬉しいけど悔しいのよ。あんたと離れるなんて考えもしなかった。」
二人でいることが当たり前の生活、一人で生きることが当たり前の生活であったように、それが世界の全てだった。
「オレもだよ。」
その時初めて、二人は微笑んだ。いつぶりかに本当の意味で真っすぐにお互いの目を見る事ができた。
会話の仕方などいらない。