その後の淫魔戦記-2
「いらっしゃいませ」
美女はどうやら、旅館の女将らしい。
「お待ちしておりました……」
光を抱っこした直人は、にこりと微笑んだ。
「お久しぶりです。またよろしく頼みます」
その言葉に、女将は婉然と頷く。
「まーまー」
未緒の抱っこを求めるので、光は直人の手から未緒の腕へと移動した。
「それでは若奥様。お部屋へご案内いたします」
「わっ……!?」
女将の言葉に、未緒は目を白黒させる。
その様子を見て、直人がくすりと笑った。
「今『奥様』と呼ばれてるのは僕の母。なら、君が若奥様だろ?」
未緒は、困ったように眉を寄せる。
「いい加減に、慣れて欲しいな。僕の妻だって事に」
一行が滞在する場所は旅館とはいってもかなり大きな所で、泊まれる施設は本館・別館・離れとある。
旅行をコーディネートした榊は、当然ながらよりプライバシーを保護できる離れを選んでいた。
神保家がここへ湯治に来たとなると手土産片手にご挨拶へやってくる地元の名士も多いため、色々な配慮が必要なのである。
家令として必要な経験を積んでからずっと……表も裏も引っくるめて内向きの仕事のほとんどをこなしてきた榊としては、当然するべき配慮だ。
宿の従業員に荷解きをして貰っている間、一行は暇なので居間に集まっていた。
榊が荷解きの指揮を執っているので操が手ずからお茶を淹れ、一同に配る。
「すみません、お義母様。お手を煩わせて……」
お茶を淹れるような雑用を義母にさせてしまった事に、未緒は恐縮していた。
「いいのよ。その体勢でお茶を淹れられるくらい器用な人なんて、あまり見た事がありませんからね」
いかにも由緒正しい家柄のお嬢様育ちらしい物腰の操は、うとうと眠る光を抱えた未緒へ微笑みかける。
離れへ到着した途端に乳を欲しがった光はたっぷりと食事を摂り、ついでにトイレも済ませてから母にくっついたこの上ない安心感に任せて、眠りに入った所だ。
「しばらく、目は覚まさないわね」
孫を一瞥した由利子は、大きく伸びをする。
「長いドライブで、体が固まってるのよ。悪いけど一足先に温泉に浸かって、リフレッシュしてくるわ」
そう言ってから、由利子は二人を見た。
「……操さん、一緒にいかが?」
誘われた操は、微笑んで首を横に振る。
「お申し出は嬉しいのですけれど、榊さんが戻って来てから詰めたい事がありますの」
「そう。それじゃ、お先に」
何気ないふりを装って、由利子は居間を出て行った。
「……俺、ちょっと周りを見てくる」
今まで無言でお茶を飲んでいた伊織が、立ち上がって居間を出る。
二人が出ていってから、直人は息をついた。
「あの二人、話し合えればいいけどなぁ……」
「話し合うために、追い掛けていったんじゃないかしら?」
おっとりと、操は言った。
「あ……」
ばつの悪そうな顔をしてから、直人は未緒へ視線を向ける。
未緒は低く小さな声で子守唄をハミングしながら、優しい眼差しで光を見ていた。
――二人の出産を経験したというのに、その体つきに緩みやたるみは全くない。
むしろ年を重ねる毎に十代の時にはなかった色香が滲み出てきて、どうしようもないくらいになまめかしい。
これもまた、父親の特異能力からの賜物なのだろう。
――父親から受け継いだ能力のいくつかは、未緒が普通の人間となっても消える事はなかった。
例えるなら一度覚えた自転車の漕ぎ方を何年経っても忘れないようなもので、その気になって念じれば今でもそれらの能力を呼び出す事ができるのである。
「さて、夕飯まではまだ時間があるし……ちょっと下見をしてくるよ」
母と妻の仲がいたって良好な事を知っている直人は、そう言って腰を上げた。
「桜が、気になるんだ」
「ふぅ……」
湯舟の中に顎まで沈んだ由利子は、思わずため息をついていた。
伊織と顔を合わせたくないために離れにある専用の風呂ではなく、本館の大浴場まで足を伸ばしている。