遥か、カナタ。〜FILE−1〜-6
夢を見ていた。ふわふわとした、自分が寝ているのか起きているのかあいまいな時間帯にぼんやりと見る映像の心地良さに、僕は陶酔していた。
──ん、かな──ん。
遠くで声がする。
綺麗な声だ。
天上の歌姫もかくやとばかりに僕の鼓膜を優しく揺らす。
──う、かな──てば。
ん?
──奏太くん、起きてってば。
その声に、僕はようよう体を起こした。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。夢を見ていたようだが、思い出せそうで思い出せない。
「奏太くんってば、何でこんなところで寝てるの?」
声の方へ頭を上げてみる。
化粧気のない、綺麗な白い肌。
すっと通った鼻筋。
少し垂れた大きめの黒い瞳。
僕の目の前にいたのは、副会長、佐々塚楓さんだった。
指輪を見つけたのは朝の5時。
帰る気にはなれなかった。
宿直の国語教師、森馨は内側から鍵をかけていたため、宿直室に入ることが出来なかった僕は、取り敢えず部活棟のトイレの窓から侵入した。転がり込むようにトイレの固い床に体を打ち付けたせいで冴えた目も、冷たく閉ざされた生徒会室の扉の前までくると思い出したように眠気を取り戻した。
「今、何時です?」
「7時、少しね」
左手首の時計に目を落としながら、楓さんは言った。朝のHRは8時半から。
「…楓さん、いつもこんな時間に来てたんですか?」
僕は開いたばかりの目を思わず限界まで大きくした。
「今日はね、財務の資料を朝一で広岡先生に提出しなきゃいけないのよ」
広岡、という単語を聞いた瞬間僕は思わず眉根にシワを寄せた。生徒会担当のあの日本史の教師を、僕は未だに好きになれない。
「私の家、プリンターがないから」
そう続けた後、楓さんは意味ないでしょ?と付け加えて笑って、鍵を扉に差し込んだ。大きな黒い扉は、17歳の美少女に屈服するように僕たちを部屋の中に招き入れた。
僕は入ってすぐの自分のデスクにポケットから出した指輪を置くと、椅子に体重を預けた。
ちなみに、僕の机は普通の教室に置いてある授業で使う机と同じもの。小汚い天板に『石井LOVE』や、『K殺す』などという落書きが彫ってあるところから見ても、完全に使い古しである。三角形に折られた段ボールの裏に手書きで書き殴られた『総合管理担当』という役職名がなければ廃棄待ちの粗大ごみにしか見えないだろう。視線を窓際に移すと、巨大な黒檀の机が目に入る。プラスチック製のネームプレートには『第19代生徒会長 秋山』の文字。
どうやら、学校を社会の縮図と呼ぶ一部の主張は正しいらしい。
「奏太くん、もう少しここにいるなら、鍵、教務室に返しておいてくれないかしら?」
ぼんやりしているうちに、楓さんはプリントアウトを終えたのか、A4の用紙を4〜5枚抱えて僕の机の前に立っていた。
わかりました、と頷くと、楓さんは足音だけを残して生徒会室を後にした。
現在、7時27分。朝のHRまでには時間があると、壁にかけられた古めかしい柱時計で確認する。
僕は軽く背骨を延ばすと、『石井LOVE』の上に突っ伏した。