銀色雨傘X-1
さらさらと雨が降っている。
雲は厚く重たいが、降る雨は軽く儚く、地表に達する前に見えなくなる。水溜りにできる小さな波紋だけが、その存在を知らしめていた。
庭木の葉についた水滴が、何かの拍子に滑り落ちる。音も立てずに落下して、地表に割れ砕けるたびに、ほんの数瞬の煌めきを生み出した。
咲貴が持つ傘からも、雨滴が次々と転がってゆく。銀色の雨傘だ。内側から見ても、その不思議な光芒は衰えない。夜明けの月のように透明で、朝日の最初の一閃で消え失せる危うい色合いだ。
咲貴は今、美咲の家へと向かっている。駅での一件の後、咲貴はそのまま帰る気になれず、結局いつもの通り行動することにした。ただ、彼の隣にはいつもと違って美咲がいない。美咲がいつも持っている雨傘も、今は咲貴が差していた。
――美咲はどこへ行ったんだろう。
道すがら、咲貴はもう何度も同じことを考えた。確かにあの場に美咲はいた。車道に飛び出すのも、この目で見た。なのに美咲はどこにもいない。幻覚や白昼夢でなかったことは、この雨傘が照明してくれる。しかしまた、美咲がいないということも、もう一つの事実だった。傘は残り、美咲は消えた。一体これは、どういうことなのだろう。
咲貴は自分の考えに、心臓が不安を刻んだのを感じた。
美咲は、『消えた』。『いなくなった』のではなく、『消えた』……。不安が目に見えない手となって、彼の首筋をそっとなでていく。寒気がするのは、冷たく湿気た風のせいばかりではない。咲貴は駅で味わった、あの訳の分からない焦燥感が再び湧き上がるのを感じた。なんだろう。自分は何か、大切なものを失おうとしている。それが何であるかは、もうすぐそこまで出かかっている。なのにそれは掴もうとすればするほど、輪郭を崩し、意識の奥に霧散してしまう。
例の垣根に囲まれた家が見えてきた。ここからでは、あの庭のアジサイを見ることはできない。雨に濡れた門扉を押し開ける。随分と凝った作りで、金属の蔦が絡み合って複雑な模様を描き、所々に薔薇に似た華が彫られていた。
――お母さん、花が好きだったでしょう……
ふいに美咲の声が甦る。そう、確かに母は花が好きだった。だからこそ、彼に咲貴という名を与えた。
――今度は美咲って名前にするわ……
耳の奥で、母の声がした。いつ、どんなときに聞いたのかは忘れた。でもそれは、本当に昔のことのように思えた。
咲貴は踵を返し、門扉も開け放ったままそこを離れた。次第に歩みは速くなる。それにつれて、雨脚もしだいに強まってきた。気が付けば、咲貴は走っていた。とにかく一刻も、ここから離れたかった。それは焦燥感だった。ここは違う、と頭の奥底から誰かが語りかけてくる。ここに美咲はいない。