快速ラピット-4
親父は隣の遠藤と犬猿の仲にあるらしい。いや、特定の人間を毛嫌うという思考が親父にあるかどうかといえば甚だ疑問だ。遠藤のほうから一方的に親父のことを、と考えるのが一番自然だった。
かつて親父は大手の自動車メーカーで働いていた。
今でこそ信じられない話だと思うのだが、その頃の親父というのがえらく軟派な性格で、裸の女性と出会うために生きているような人間だったという。口を突くのは白々しい口説き文句、人づてに聞かされた若き父の台詞は、大抵の場合俺の顔を赤くさせた。
そんな逸話があるものだから、たとえ恨みのひとつやふたつ買っていたって何ら不思議はない。きっと親父は遠藤の恋人を口説いちゃったんじゃないだろうか、と俺は推測している。
キッチンの戸を開けると、リュックサックを背負った親父が、
「よおし! いいぞ!」
ではなく、リュックサックを背負ったラピットが二本の脚でテーブルの周りを周回していた。親父はラジコンのコントローラーみたいな機械を持って、その覚束ない赤子のような歩行を見守っているだけだった。
「ラピット?」、俺は思わず呟いた。
親父は俺が起きてきたことに気がついて、にんまりと微笑んで言うのだった。「おはよう、小唄!」、数ヶ月ぶりに見せる笑みだった。「今こいつに、起こしに行かせようと思っていたのだがな」
「すごいや、ちゃんと歩いてる」
「何がすごいものか。足は何のためについている? すべからく歩くためだ!」
そう言ってコントローラーを操作すると、ラピットはやや早足になって俺の目の前までたどり着いた。そのまま止まってくれれば尚良かったのだけど、みぞおちにラピットの頭がぶつかった。押すな、押すな。
「すまん」、親父は慌てて操作して、ラピットを止めた。すると途端にモーター音が止んだ。「痛くなかったか?」
「大丈夫。……ちょっとウってなったけど」
「まだ操作に慣れていないのだ。全ての動きを把握してはいるのだが、命令後のタイムラグにムラがあってな、だからこれはラピットのテストというよりは、私のためのテストであると言える」
こちらがが平気だと察するが早いか、親父は再びラピットのモーターを回した。控えめな掃除機みたいなあの音も雑じっている。
「この音は?」
「発電機だ」、親父はラピットのUターンに合わせるように体を捻った。何となくコンピューターのレースゲームに夢中の子供みたいに見える。「小型の発電機を搭載することによって電力の“消費”と“生産”を同時に進行させている。ダイナモと同じ原理だが無論、消費のほうが上回るから無制限に作動させることはできん」
「結局、どのくらい?」
「四時ゼロ七分から稼動している。計算では約三時間ほど――」、そのときモーター音が鈍くなり、低く低く余韻を残してやがて動きが止まった。「――動くはずだったんだがあくまで計算上であることを申し添えておこう。実質の連続稼動時間は約一時間か。なに、上出来だ」、その補足説明は自分に言い聞かせているみたいだった。ラピットは右足を前に出したまま窓の外を眺め続けていた。
コントローラーをテーブルの上に置いて、ラピットの背中のリュックサックを開けた。ジッパーをおろすとずんぐりとした四角い機械が姿を現せた。どうやらあれが発電機であるらしい。親父は発電機のカバーを開いて、レンチを片手に中身をいじくり始めた。
俺は放られたコントローラーを手に持ってみた。「触るな」、一瞬親父に睨まれたが、『見るだけ見るだけ』とジェスチャーで返し、構わず眺めた。
ラジコンを動かすには少し大げさだった。何も表記されていないボタンが数十個と、ビデオゲームでいう十字スティックが四対。三十センチくらいのアンテナ。――複雑すぎて、俺には動かせそうにない。
なんの前触れもなくチャイムが鳴った。俺は顔をしかめた。朝の五時過ぎに来客があるなんて普通じゃない。きっとこれは苦情のベルだ。
「遠藤だよ」、と俺は言ってみた。
親父はまるで興味がないふうにラピットの背中に手を突っ込んでいた。「小唄、お前が出ろ。私は忙しい」
抗議の言葉が喉元まで這い上がったが、親父の嬉しそうな顔を見ると野暮なことは言えなかった。俺はコントローラーをテーブルに戻し、『お手上げだぜ』のジェスチャーをして廊下へ出た。