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快速ラピット
【純文学 その他小説】

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快速ラピット-1

 1、生誕

 そいつは産まれたばかりの小鹿のように震えながら立ち上がろうとしていた。肌の色は旧型の冷蔵庫みたいなパっとしないミルキーベージュで、産まれたてだというのにヤニで薄汚れているみたいに見えた。
「いいぞ、いいぞその調子だ、立ち上がれラピット!」
「もう名前を?」、ディスプレイの前で握りこぶしを掲げる親父をよそ目に、俺は呆れていた。「それにしても“ラビット”? そのネーミングはどうかと思う。だってウサギには見えない」
 モニター室と試験場はぶ厚い(本当に馬鹿みたいにぶ厚い)鉛の壁で遮られているから、カメラを介さなければ試験場の様子は確認できない。ディスプレイは小さく、あまつさえ親父が噛り付いてるせいで俺の位置からは親父の背中しか見えなかった。
「半濁点。ラピット。ラビットじゃない」
「ラピット」、繰り返してみたその単語は、何となく出来損ないの商標名みたいな響きがした。「ふうん、ラピットね」
「造語だ。“ウサギ”と“快速”、そして“ロボット”をかけた。名は体を表すというようにラピットは他のどんなメカよりも精密で――」、熱心に解説を続けながら、手元を見ないで器用にキーボードを叩く。しわくちゃの首元を挟んでディスプレイを覗き込むと、彼の運指と連動するみたいに“ラピット”が一歩、前進した。「――俊敏だ。生身の人間を凌駕するほどに」
 最後の一打がひときわ強く打ち込まれる。……そのタイミングでラピットはすっ転んで、強く頭を打った。親父は自分の頭を打ったみたいに口を開けて絶句した。
「俊敏?」、俺はコーラを飲んでから、ゲップ混じりに呟いた。
 しばらくの間があった。「そうとも!」、親父は意識を取り戻し、再び指先をキーボードに叩きつけた。「どんな体勢からも速やかに起き上がる。それを試したかったんだ。ラピットは自分がどのような状況下にあるのかを逐一判断し、次の行動を絶え間なく計算し続けている。彼の優れた点は二足歩行を実現した高性能のバランサーに集約しているわけではなくむしろ最先端のスーパーコンピューターのほうに……」
 ラピットは横に倒れたまま、早口の解説と反比例するみたいなマイペースで架空の地面の上を歩き続けていた。水がない点を別にすれば水泳のバタ足みたいに見える。親父の熱弁はトカゲの尻尾のように少しずつ弱まり細くなり、最後にはぷっつりとその先端を切り離した。ラピットだけがありもしない水を律儀に蹴り続けていた。
「あいつは、あそこにプールがあると思ってるのかな?」、と俺は言った。
 親父は絶句したまま、ディスプレイの弱い明かりを老いた顔に浴び続けた。そして呟いた。「また失敗だ」

 ……。

 親父がこうなるとお手上げである。決して広くない家の中を競歩のような早足で歩き回り、あれも違う、これも違うと意味不明の葛藤を撒き散らしながら家具を引っぱたいて周るのだ。これが彼なりのアイデア抽出法らしいのだが、うるさくってたまったもんじゃない。
「待てって、忘れたのか? 前に遠藤からすごい苦情がきただろ、うんざりしてたのは誰だ?」
 制止するために腕を掴むと、彼はあらん限りの力でそれを振り払う。「座標の認識レベルが甘かった! それとも転んだときに……いやいや“転ばせた”ときにコンピューターが少しイカれたのか! いずれにせよ仕組みそのものに欠陥はなかった!」
 俺の顔面に唾を散らしてから、再びその破滅の競歩を開始する。顔に付着した唾を拭って目を開けると、親父の背中が俺の寝室の中へ消えていくところだった。やれやれ、もう一度追いつかなければならないわけだ。


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