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快速ラピット
【純文学 その他小説】

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快速ラピット-3

「まずは歩かせてみろよ、電車だか、ウサギだかは知らないけど」
 親父は目を見開いて俺を睨んだ。「歩くとも」、テーブルの上に二滴、三滴、トマトソースが点を作った。「今に見ていろ、ラピットと百メートル走で競争させてやる」
「走る必要が?」、俺はボックスティッシュでテーブルを拭いた。「順番を考えろって言ってるんだ。いきなり走る動物がいるか? あんたは産後直後、突然元気に走り回ったか?」
 親父は目を逸らして食事に戻った。そしてぶつぶつと呟いた。「ガゼルはすぐに走る、産後直後立ち上がり、数時間で大地を蹴る。自然界で外敵から身を守るにはそれはむしろ無くてはならない能力のひとつ、ラピットだって彼らの――」
「小鹿のロボでも作ったら?」、と俺はすぐに遮った。

 多くの野心家を見てきた経験上の最善策。彼らの心を最も深くえぐる方法は実に簡単で、現実の話をすればいいだけのことである。彼らは大抵の時間を空想世界で過ごしているから、現実側にいる人間が時々こうして引っ張り戻してやる必要があるのだ。以前までそれはお袋の仕事だった。彼女が死んだ今、その作業を引き継げるのは俺しかいなかった。
 とにかく親父の研究は財産をすり減らす。少なくなかった資産は少しずつ少なくなり、今の生活があと三年続くだけで我々は路頭に迷うことができるのだ。俺ひとりならのんびり働いて生きていける。でも破滅の一途を辿ろうとしている肉親をよそ目に見捨てては行けない。歯止めの言葉に毒を盛りすぎるということはなかった。

 親父は無言で立ち上がった。いつの間に彼の皿は空っぽになっていた。
「『ごちそうさま』、言ってない」、俺は親父の背中を呼び止めた。
 親父は背中を向けたままぴたりと立ち止まった。ずいぶん苛立っている様子だが、迷った末にこう怒鳴るのだった。「ごちそうさま」
 床を鳴らして去っていく彼はまるで子供みたいで可愛らしい。二十四年も遅れて産まれたお袋がどうしてこの変人を愛したのか。それを納得するというのは実に奇妙な感慨を伴うことだった。“男の人はいつまでも子供なのよ”、どこかで聞いた通説が妙な説得力を以って頭に浮かんだ。あれを言っていたのは確かお袋だったと思う。

 3、快速ラピット

 ラピットが歩けるようになったのは六月の終わり、前日の蒸し暑さを残す早朝だった。

 そのとき俺はスペースシャトルの打ち上げに直面し、泣きながら耳を塞ぐ夢を見ていた。『何も目の前で打ち上げることないじゃないか!』と怒鳴るのだが、音の雪崩とでも喩えられるべき騒音の中で悲鳴を聞きつけてくれる者はいなかった。平手で頭蓋を割りかねないほどきつく両耳を潰した。でも騒音は現実の世界から聞こえていた。

 目を開けてみると騒音と呼ぶには少しチープなモーター音が遠くから聞こえているだけだった。掃除機のようなやかましさがあってたしかに耳障りではあるけれど、何も頭蓋を割るほどの大げさな惨事でもない。
「よおし!」それより「いいぞ!」問題なのは「その調子だ!」親父の奇声だった。
 時計を引ったくって文字盤を確認すると、短針が五に重なったばかりだった。起き上がるにはまだ早すぎるが起き上がる他に仕方がない。放っておいてはまた隣の遠藤から苦情がくるかも知れない。きっとこうだ、『おい斉藤、朝っぱらから何を騒いでる、迷惑だとは思わんのか!』、勘弁してよ、迷惑なのは俺も一緒なんだからさ。


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