微笑みは月達を蝕みながら―第弐章―-8
「シン、いる?」
家の中へ戻り、先程姿を消していた白猫の姿を探す。人間嫌いを公言しているため、レンか白に頼まれない限り人間の前に姿を現すことはない。
「あ、いた」
「なんだ」
「あれ、不機嫌だね。何で?」
「主人に訊け」
ほんの僅か外に出ている間に何があったのだろうか。
「何のことはない。主人に文句を言っただけだ」
「何したの?」
「主人がいきなりホチキスをパチパチ閉じはじめてな」
「はぁ」
「ポロポロ芯が零れるわけだ。閉じた奴が」
「……へぇ」
「それを鎖のように繋げはじめてな」
「………」
「『ねぇ、シン、見てみてこれ何処まで長くなるかなあ』とふざけたことを言い出すわけだ。何をしているのかと訊いた。当然だろう」
「…………………」
「『これ繋げて鎖を作ろうと思ったの』と答えたのでな。あまりにとぼけた答えだったのでまぁ、少し提言しただけだ」
……。ぶ、不気味だ。
「頭大丈夫かな、あのヒト」
「中身以外は大丈夫だろう」
あの、それは一番肝心なところじゃないですかと心の中でも何故か敬語で疑問に思う。前々からワケ分からない行動ばかりとっていたが、なんか拍車がかかっている。本当にボケが始まっているのかもしれない。
「で、何の用だ」
「あ、えーっと……」
少し躊躇いがあった。レンも様子がおかしいようだし。流石に普段はもう少し常識的な行動をとっている。と思うが、白には断言できる自信がない。だからこの際、置いておこうと思う。
「あのね、レンさんには内緒にしてくれる?」
シンの顔つきが鋭くなる。シンはレンの言うことに絶対服従を誓っているが、同時に白の頼みを無下に断ったりはしない。相反する頼み事をされた場合でも、最大限に白の希望を叶えるところがあった。白の言うことを聞くこと、それがレンの最初期の『命令』だからだ。
「何だ?」
「夕くんのこと」
「あのガキが…なんだ?」
「違和感感じなかった? シン、夕くんの身体診たんだよね?」
シンも『察知』の能力を持っている。レンとは違い、身体的な“異質”を『察知』するのに長けている。優劣はなく、単純に得手不得手の問題だ。
「俺が診る限りなかったが」
「……そっか。そうだね」
「なんだ気持ち悪い。何か気になることでもあるのか」
「あるといえばあるし、ないといえばない。誤魔化してるわけじゃなくて…あるとすればレンさんの態度、かな」
「主人が?」
「……いいや。多分私の気のせいだと思うから」
「なんだそれは」
途端に声が不機嫌を帯びる。しかし白にはどうしようもない。
「レンさんに関してはそんなに深刻な感じがしないから。特に何か考えているわけではないと思う。多分だけど」
我ながらまとまりがないなと思った。白は感情や感覚を表現するのが苦手だ。
「だから本当に……違和感、なんだよね」
「お前にあるのではないのか?」
キョトン、としてしまう。一瞬、意味がわからなかった。
「いつもと違う所があるとすれば、それはお前じゃないのか?」
「………そう、かもね」
不覚にも、納得してしまう。確かに今日は、いつもの自分じゃない。
「なんだかな、シンにそんなこと言われるとは思わなかった」
「どういう意味だ」
「怒らないで。うん、褒めてるよ」
だけど明日からは、いつもの自分に戻るんだろう。“そうでなければならない”から。
「また会えたらいいな」
それでも願うぐらいは、許されるはずだった。願うだけだ。叶ってほしいとまでは、思ってはいけない。もしも願いが叶ったら、その先にあるのは――“無”だ。
胸が痛くなった。哀しくなった。泣きたい。泣けない。泣かない。
ポケットの中のモノを握り締める。みしみしと、悲鳴を上げる。