右手の記憶-3
顔をしかめ崩れそうになる私を見て彼はあわてているに違いない。映像が電流に変換されて神経を伝ってくるような感触は何度経験しても慣れないものだ。
これは…彼?
見えたものは、彼の顔。鉛筆を持つ手。蛍光灯。そばにある時計は午前2時04分を指していた。この手紙を書いているときの記憶なのだろう。
彼は何度も何度も、書いては消し、消しては書いていた。その目付きは普段のひょろひょろした彼からは想像もつかないほど真剣だった。よく見ると、そばには無数の消しゴムのかすが散らばっていた。きっと相当な回数を書きなおしたに違いない。それにもかかわらず彼の目は真剣なままで書きなぐっては消して、書きなぐっては消して繰り返し続けている。渾身の気持ちで書いた文章を平気で消してしまうのだ。
私は自分が動揺していることに気付いた。
彼は私に気持ちを伝えるということのためにここまでひたむきに、純粋に手紙に向かい合っている。そのことが私の心を打った。これまで私は「好き」なんて感情は、青臭いものだと鼻をつまんでいたし、私自身、そこまで人をひたすらに好きになったということがなく、その感情がよく理解できなかった。これまで、私に告白してきて散っていった男たちだって、結局は「私」が好きなのではなくて、「私という彼女のいる自分」が欲しかっただけだった。しかし、彼は違う。はじめて私は彼のように、ただただ「好き」という気持ちをひたすらに抱く真っ白で陰りのない心を目のあたりにした。書いては消していくその一文字一文字に彼の想いが凝縮され宿っていくようだった。
そして、私はそれがうれしかった。これほどまで真っすぐに私を想ってくれる人がいることが。どうして今まで気付いてあげられなかったのだろう。もっと、もっと早く気付いていたかった。
頬を伝う暖かい涙とひきかえに、私の心は優しい気持ちで満ちていった。
映像が途切れて目をあけると涙で視界が歪んでいた。はじめ彼の姿が見えないのもそのせいかと思ったが、涙をぬぐい視界が明るくなるとやはり彼が目の前にいないことに気付いた。
慌てて私は彼を探す。どこにいったのだろう?
そのとき後ろの方で彼の声が聞こえた。
さようなら。
声のしたほうを振り替えると彼がいた。彼の立っている場所から一歩でも下がれば彼の身体は虚空を舞うだろう。
…何をしているの…?
彼はそっと微笑む。そして何事かをつぶやいた。
会えてよかった。
ありがとう。
私の目には彼の唇がそうなぞったのがはっきりとわかった。
少しずつ、彼は身体を空中にあずけて、ゆっくりと仰向けに傾いていく。
ヤメテ。
重力が彼の身体を地球の中心へとさらっていく。
ヤメテ。
彼はまだ微笑んだままだ。