『SWING UP!!』(第1話〜第6話)-77
「汚れちゃった物はある? ついでに、持っていくけれど」
由梨は手にしていた洗濯物を取りあえずは床に下ろすと、優しく桜子の顔を覗き込む。
「あ、あの……」
「どうしたの?」
不意に桜子は、自分が不安を抱いていたものを姉に質していた。すると由梨は、桜子を安心させるような優しい微笑を見せる。
「わたしにも、そんな時期はあったわ」
「え?」
まるで、桜子の性衝動が当然なものであるかのように由梨は言った。
「わたしは結構、遅くにオナニーを知ったのだけれど、その分、衝動が激しかったのかしら……覚えてからは、ほとんど毎晩やっていたものよ」
「そ、そうなの?」
毎晩、というのはすごい。週に4回がその平均である桜子には、そう思える。
「確か……そうねぇ、龍介さんがウチに来てからかしら」
少しだけ頬を染めて、由梨は語り始めた。
「わたしは、高校も女子高だったし、お父さんのお手伝いばかりしていたから、男の人と個人的なお付き合いなんてなかったの。高校を卒業して、すぐにこの店で働き始めたから、お客さんの中で声をかけてくださる人もいたけれど、気持ちの余裕もなかったし……それはそれで構わないとも、思っていたわ。でも……」
そんなある時、父の又四郎を抱えた龍介が蓬莱亭にやってきたという。たまたま飲みに出ていた父がその店で質の悪い客に絡まれ、それを助けようとその店でバイトをしていた龍介が間に入り、相当な大喧嘩になってしまったとのことだった。
又四郎は最初の時点でかなり殴打を受けており、しかも左腕を骨折していた。幸いにして利き腕は無事であったものの、腕の故障は料理人にとって大きな痛手だ。
『オヤジさんがこんな目にあってしもうたのは、ワイにも責任があります。料理はできへんけど、接客やら掃除やら、材料の仕入れやらは経験ありますんで、どうか手伝わせてください』
その龍介も、又四郎を庇ったときに殴られたのか、顔面をひどく腫らしていた。
彼自身は客に手を出さなかったが、喧嘩の相手になった男がかなり偏執性のある人物だったらしく、落ち度も何もないはずなのに龍介は何度も平手を食った挙句、自らが身を引く形で話を落ち着かせた。つまりは“自分をクビにして、責任を全部、ワイに押し付けてしもうてください”と店長に頼んだのだ。“こんなヤツは、すぐにやめさせちまえ! でなきゃ、ゆるさねえ!”と、相手も言っていたし、実際、店長がその話を相手に通し、彼の目の前で龍介を怒鳴りつけクビを言い渡したことで溜飲を下げたらしく、最後は妙に機嫌を良くして帰っていった。
もちろん、客の前で自分を怒鳴るように頼んだのも龍介だ。そうすれば、少なくとも相手の負の感情は、和らぐだろうと計算してのことだった。
店長や他の店員はそんな龍介を惜しみ、強く慰留したが、やめさせたはずの店員が実は残っていたという事実がわかれば、今度は相手を際限なく、そして見境なく怒らせるだろう。住み込みで働いていた彼は、少ない荷物をすぐに整理すると、店長が呼んでくれたタクシーを使い又四郎を病院へと連れて行った。若干遠くはあったが、充分すぎるほどの料金が“当座の費用に”という形で店長から渡された封筒の中にあったので問題はなかった。
『あれ? 蓬莱亭のオヤジさんじゃないの』
タクシーの運転手は、又四郎の顔を見るなりそういった。そして、運転手から又四郎のことと、彼と娘が健気にも切り盛りしている“蓬莱亭”のことを聞き及び、龍介は力にならねばと考えた。
そこで、又四郎が病院で手当てを受け、見た目にも困った様子の彼に頭を下げて、詫びと同時に、住み込みでバイトをさせて欲しいと願い出たのだ。
『申し訳ないのは、こっちなんだ。そんなに頭を下げないでくれ』
そもそも、彼が前の店を辞めさせられた原因は、又四郎が誤ってぶつかった相手に絡まれたのが原因であるし、それに、飲食店での経験が豊富な彼の力も必要とした。
一も二もなく龍介を蓬莱亭で雇い、さらに、宿無しだった彼のために自分の部屋を宛がった。
『オヤジさんは? 部屋はどうなさるので?』
『俺は、家内の部屋で寝起きするよ』
逝って久しい又四郎のつれあいの部屋は、長い間、何にも使われていなかったから、その部屋で又四郎は起居をすることにした。
それが、蓬莱亭と龍介の出逢いである。