***君の青 B***-1
一人で仕事をすることには慣れているはずなのに、今日はひたすら苦痛の時間が続いた。おそらく、今日から雫が入ってくれるとばかり思っていたので、心のどこかに油断があったのだろう。けれど彼女がいない時に限って店は大繁盛。僕にとっては文字通り猫の手も借りたいほどの忙しさだった。
もちろん、救われる場面もあった。細井さんが顔を出してくれたのだ。彼が店に入ってきてくれた時は、顔中に笑みがこぼれてしまうほど嬉しかった。
彼はいつものように僕の正面のスツールに腰掛け、昨日と同じように、僕の煎れたコーヒーを、
「マスター、いつものお願い」
と、言って注文してくれた。どうやら、これから先もこうやって注文する気らしい。
気のせいかもしれないけれど、細井さんはまるで僕に色々と助言をするためにここへきているようだった。夕食をつつきながら、その話を雫にすると、彼女は自分で作った鯵のから揚げを箸でほぐしながら、
「あながち、それは気のせいじゃないかもよ」
と、笑った。彼女が帰ってきたのは、閉店してすぐのことだ。しかも両腕には抱えきれないほどの荷物を乗せて。それを見た時、僕の第一声は、なんだそりゃだった。
最初は、彼女も女だから洋服だの化粧品だのを衝動買いしたのかと思ったら、違った。よく見ると、一つは近所のスーパーの袋、もう一つは紅茶とコーヒーの専門店の袋、そして最後にCDショップとBOOKSストアーの小さな袋だった。
彼女は今日一日で、自分の欲しいものの他に、店に必要なものと僕らのここ数日間の食料の買出しに出てくれていたのだ。それを知った時には、涙が出るほど感動してしまった。
けれど本当に感動ししまったのは、その後だった。
意外にもイガイ、彼女の作る料理がおふくろの作るものよりもずっとおいしかったのだ。ポテトコロッケに鶏モモ肉の梅肉ソース煮。そして鯵のから揚げの隣りにはニンジンのサラダと種類も豊富で、それらは華やかにテーブルの上を飾っていた。中でも僕が気に入ってつついたのが、ポテトコロッケだ。からりと揚がったキツネ色のころもが、口の中で心地よい音を立てて崩れていく。そのなんともいえない感触が、後を引いた。
「ねえ、絆」
サラダを小皿に取りながら、雫は言った。
「ん?」
僕は最後のポテトコロッケを口に運ぶ手を止め、顔を上げた。
「その細井さんっていう人、絆のためにきてくれていると私は思うな。そうでなきゃ、そんな親身になってアドバイスもしてくれないと思うし」
「そうだよな。うん、俺もそう思う」
うんうんと頷きながら、口いっぱいにコロッケをほおばる。
「よかったじゃない。いい人が引っ越してきてくれて」
そう言うと雫は、頬杖をしながら僕を見て笑った。
料理のほかに、彼女の準備のよさにも僕はほとほと頭の下がる思いだった。
いつの間にそうしてくれたのか、僕が夕食を食べ終わり自分の部屋へ戻ろうとすると、雫が、
「お風呂沸いてるから、先に入っていいよ」
と、言うのだ。
「お前は先に入らなくていいのか?」
僕は立ち止まり、訊いた。彼女は鼻先に泡をつけながら、積み上げられた洗物をさして苦笑した。
「これ洗い終わってから入るよ。あ、でも長湯は駄目だよ」
「はは・・・お前が言うか?」
僕は居間を一歩出たところで、もう一度そこから中を覗いてみた。僕に気が付かないで、真剣な顔つきで汚れた食器を洗っている。
「いい嫁さんなるよ。本当」