夕日とホルマリン漬け-1
僕の高校の放課後の科学室は不気味なくらい静かだ。蛙や、その他よくわからないがとにかく気持ちの悪い生物の死体たちが、ホルマリンの中にプカプカ浮かびずらっと並んでいて、これまた不気味なのだが、僕が落ち着かないのはそのせいではないように思う。気付くと、無意識のうちに袖をまくり腕時計を見ていた。…さっきからまだ1分しか経っていない…。いったいこれで時計を見るのは何度目だろう。そして、未だに飲み込み切れていないこの状況を把握するために、ポケットからきれいに折り畳んだオレンジ色のメモ用紙をとりだし、おもむろに広げる。この行為も、もう何度目かわからない。
『修一くんに大切な話があります。ふたりだけで話がしたいので放課後に科学室に来てください。三島まり』
隅にミッキーマウスがプリントされたそのかわいいメモ用紙の上、これまたかわいい、女の子独特の丸文字でそうつづられていた。
またそれを元通りに、きれいにたたみ、ポケットにしまう。それは帰りぎわに、隣の席の三島が、そっと、自分に渡したものだった。僕と三島は席こそ隣同士だが、ときどき事務的な会話を交わす程度の仲だった。
その三島が僕に話とは、一体なんだろう…。
…まさか、告白?
そんな淡い期待を含んだ、甘い予測が頭をよぎったので、あわてて自分を戒めその勘違いな予測を打ち消した。ありえない。根拠もない無防備な期待が、落胆と失望しかもたらさないことは火を見るより明らかだ。
ありえない、ありえない、ありえない…
そう僕は自分自身に誓いを立てるように、何度も言い聞かせた。
なにせ、―この僕ですよ?
外見もパッとせず、何をしても平均どまり、おまけに音痴な僕は、今まで生きてきて、女の子の手を握ったこともなく、告白などされたことがないのはもちろんのこと、まともに女の子と楽しく喋ったという記憶がない。女の子を前にすると途端に頭が真っ白になり、言葉がつまってしまうのだ。そして、ようやく何かしゃべったとしても、支離滅裂。その夜はいつも決まって、自分はさぞ滑稽な、まるで狂ったピエロのように見えていただろう、二度と自分のような気持ち悪いピエロ野郎とは話をしてくれないだろうと想像して、自己嫌悪に陥っていたものだ。今でも、ちょっと用事があって女子に話し掛けねばならない時など、いちいち緊張し、変な汗を額ににじませての大仕事だ。自分ばかりなぜこうなのか、僕自身もよくわらない。むしろ、みんなはなぜ、ああも気軽に、女の子というものと話せるのだろう。あの『女の子』という、自分と同じ人間というカテゴリーの中にいながら、自分とは全く違った得体の知れない恐ろしい生き物と、どうして平気な顔をして話せるのだろうか。
こんな僕に?あの三島が?我ながらばかばかしい仮説だな。笑っちゃうね。
三島まりといえば、クラスでも一、二を争う美少女だ。少なくとも、僕はそう思っている。僕の観る眼がそれほど正確か、と聴かれたら自信はないが、クラスの、僕とは違い、サッカーなどの優雅なスポーツをやっていたりして、女子にもモテる男子たちが『三島ってかわいいよなぁ』と言っているのを以前耳にした。自分から女の子を振るなどという贅沢をできる方々のこと、さぞ目も肥えているはずなので、たぶん間違いはないだろう。あまり男子とは接点がないようだが、その控えめな性格から、きっと男子たちからの好感度は高いことに違いない。
そんな、美しい薔薇と名もない雑草、華麗にはばたく蝶と地を這ううじ虫、高貴な王妃と薄汚い奴隷、高性能処理速度をもつ最新のスーパーコンピュータと100円の華奢な電卓、そんな僕らの、比較したらきっと天文学的数値が必要になるであろう関係にもかかわらず、このネガティブな僕が、少しでも淡い期待を持ってしまったのは、きっと僕が三島の事を好きなせいかもしれない。