夕日とホルマリン漬け-2
どうせ叶うことはないので極力人を好きになることを拒んでいた僕だが、三島とは今月から席が隣になったことで、毎日いやでも彼女の気配を近くに感じていなければならなかった。時折、目が合い、彼女がふとほほえむたび、現実的な理性とは裏腹に、徐々に彼女に引かれていくのを、むしろ感情が引きずりだされていくのを感じた。
また、彼女はクラスで唯一、僕のことを『修一』という下の名前で呼んだ。これも僕が彼女を好きになってしまった原因の一つかもしれない。
数少ない友人にも『笹山ぁ(僕の名字だ)』と名字で呼ばれていたし、女子には呼ばれることすらなかった。僕を下の名前で呼ぶのはせいぜい家族と三島くらいなものだった。中三の弟ですら最近は僕に話し掛ける際、『おいっ』で済ませることが多くなった。
『修一くん』
あの透き通るような声でそう呼ばれるたび、寿命が2分縮んだ。そのあとに続くのは『そのプリントみせて』だったり『消しゴム貸して』だったり、様々だったが、その後の言葉を聴く頃には体は銅像のように堅くなり、背中には変な汗がにじんでいた。平常心でまともに対応できた記憶がない。
「修一くん」
また寿命が2分縮まった。
気付くと、三島まりが遠慮がちに入り口から僕をのぞいていた。科学室にはもうオレンジ色の夕日が差し込み、グラウンドのほうから野球部のやかましい掛け声が聞こえてきた。
入り口から少し離れた机に寄り掛かるようにしていた僕の体は例によって、二宮金二郎像になった。
「もしかして、けっこう待った?ごめんね、わざわざ呼び出しちゃって」
そう言いながら僕のそばに急いだ様子で寄ってきた。気を抜いたらその圧力で弾き飛ばされるところだ。
「ぜ、全然っ…僕も今来たばっかりだし、全然平気だよ…」
声が裏返るところだった。危ない。きっと今、言語中枢に3%くらいしか神経が通ってない。無意識のうちに左手で前髪をいじっているのに気付き、慌てて手を下ろす。全身が熱をもつのを感じる。
「…は、話って、なに…?」
僕がなけなしの言語中枢で疑問文を表すであろう音声記号の羅列をなんとか絞りだすと、それを受け取った彼女の頬は幾分赤らんだように見えた。
「その…」
彼女は何かためらった様子で一瞬口籠もったが、意を決したのか再び話しはじめた。
「あの…ずっと、言おう言おうと思ってたんだけどね、どうしても言えなかったことがあるの。」
見とれてしまいそうな彼女の綺麗な顔が、今度は明らかに赤みを増した。
「はじめはね、ほんの些細なことがきっかけだったの。覚えてる?席替えしたばっかりの頃、一度、数学の問題がわからなかったときに修一くんに教えてもらったことがあったでしょ?」
そのことなら、鮮明に覚えている。忘れもしない三島と初めて会話を交わしたときの事だ。数学の時間、微分の問題を解けずに困っていた三島が、突然、よりによって僕に尋ねてきたのだ。死ぬほど動揺していたが、間がよかったのか、運がよかったのか、そのときはたまたま僕のできる問題だったので教えることができた。とはいえ、その時僕が正確な日本語をしゃべっていたかどうかは自信がない。しかし、それがどうかしたのだろうか。