Mirage〜4th.Weakness-13
「あぁ、神崎くん」
玉木教授は研究室のドアを開けた瞬間、僕に向かって嘆くような声を漏らした。今日も汗を拭いている。今日のタオルは普通に白。普通のタヌキに戻ります、と言うことか。
「困るよ、何でゼミの採用が38人中5人なんだい? これは明らかにやりすぎだよ」
「気に入らないのは落として構わないって言ったのは先生です」
そもそもどうしてこのゼミはダメ学生に人気なんですか、と聞きたかったが、それはそっと胸の奥に仕舞い込み、究極の盾を以ってその批判を撥ね返した。この事実さえあれば文句など言わせない。
「それはそうだけど、これはやりすぎだ。今日もう一回やり直してもらうよ」
「同じ結果にしかなりませんよ」
僕はうんざりしながら言った。勘弁してくれよ。
「いや、今日は夕紀くんにも来てもらうからね。逃がさないよ」
夕紀くん。
その単語が僕の心を動揺させた。
「奥原先輩がやるなら僕がいる必要は無いでしょう。僕だって卒論の準備をしたいんですよ」
揺らいだ心は僕に十分な言い訳を与えてはくれなかった。
「君はまだ三回生だろう? 卒論なんて急ぐことじゃないじゃないか。とにかく、夕紀くんが君を指名したんだ。ほら、私は今から広島に出張に行かなくちゃいけないんだ。とにかくよろしく頼んだよ」
タイミング良過ぎやろ。
そそくさと出ていく教授の背中に向かって僕は心の中で毒づき、昨日と同様に黒革のソファに腰掛けた。
卒論の資料を整理したい、というのは本気だった。やることがないのだ。そのつもりでコンビニで缶コーヒーと新しいマーカーを買ってきたのに、興が一気に殺がれてしまった。何にせよこのままでは、奥原先輩が到着するまで僕は何もできはしない。かといって、あるかないかも分からないこの時間に資料に目を通すのはひどく億劫に思えた。
とりあえず、コンビニの袋から缶コーヒーを取り上げる。プルタブを挽くとぷしゅ、という清涼感のある音が漏れ、それだけで僕の気持ちを少しだけ軽くしてくれた。
くぃ、と缶を呷り、口を離した瞬間に一昨日の映像が蘇った。
『君なら、何を捨ててくれる?』
彼女は言って、すぐに笑った。声に出して、実に楽しそうに。隣のカップルも橋の上の老夫婦もこちらを何事かと見ていたが、それにも構うことなく彼女は笑い続けた。
珍しいことである。クールで寡黙なイメージしか無かった僕には映像の意味が分からなかった。彼女がこうして笑うことを想像したことが無かったのだ。いっそのことタスマニアデビルがフランス語を話すシーンを思い浮かべるほうが簡単に思えた。
「言ってみたかっただけだ」
一通り笑い倒した後、奥原先輩はそれでも笑いの衝動を殺しきれずにぴくぴくと頬を痙攣させながら言った。
何がそんなにおかしいんです?
痺れを切らして僕が訊くと、彼女はようやく自分で自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
「いや、君の表情があまりに間抜けだったものでな。まさかあの神崎がそんな顔をするとはな」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
僕は幾分むっとして言い返した。
「いや、申し訳ない。帰ろうか?」
先輩が立ち上がる。
「俺が運転します」
僕も腑に落ちないままそれに倣って立ち上がった。