今夜降る奇跡の下で-1
杉浦紅葉。
スギウラモミジ。
たった今、順から教えてもらった名前を口の中で繰り返す。彼女の横顔が、ひらめきのように脳裏に浮かんだ。幻影だったあの人が、これで名前を得たわけだ。
「なにニヤニヤしてんだよ。秋良」
いたずな笑みを作りながら、順は僕の顔をのぞき込むようにして言った。別に、と平静を装いながら答えたものの、その時の僕の顔はやつの言葉どおり、間違いなくだらしないくらい崩れていたに違いない。しかし今回ばかりは、それも仕方のない話だ、と思う。
なにせ、この数カ月間ずっと遠目から見ていて想うだけの相手の名前を知ることが出来たのだから。
彼女のことを最初に知ったのは八月の中旬。
その日はしゃれにならないくらいの猛暑で、例年と比べてかなりの数字を記録した日でもあった。大学は夏休みに入っていて、当然サークルの仲間たちは朝からみんなで連れ立って海へ遊びに行っていた。そう。補習で大学へ通わなければならなかった僕を残して。うだる、どころの話ではなく、むしろ焼けるとか蒸発するとかの表現の方がしっくりくるようなふざけた暑さだった。だだっ広い教場には僕を含めても十数名ほどの人数しかなく、しかもそのほとんどが寝ていたり雑誌を広げているやつらばかりで、まじめにノートをとっている生徒は見る限りではほんの小人数だ。開かれた白紙のノートに手をついてシャーペンを回す。普段の講義に出席しないで遊びほうけていた自分に、いまさらながら腹が立った。こんなことになるなら、もう少し出席するか、せめて他の要領のいいやつらみたいに代返でも頼めばよかったのだ。
なんだか、なにもかもいやになってきた、そう思った時だった。手元に置いてあった携帯が、教場内の沈黙をやぶるように突然鳴りだした。泡を食った僕は、相手が誰かも確認しないまま取り落としそうになったそれを慌てて耳にあてる。
「もしもし」
背中に教授のきつい視線を感じながら、僕は背中を丸めてこそこそと廊下へ移動した。
「よお秋良。講義はどう?」
人を小ばかにするような、あっけらかんとした口調。思った通り、電話は順からだった。
「最悪だよ」
窓際に寄りかかりながら、僕は力無く言った。教場よりはマシかと思ったが、期待外れだった。開けっ放しになった大きな窓から風がよそよそと入ってくるものの、熱風ばかりでちっとも涼しくない。
「最悪?講義が?。ひょっとして俺の電話じゃないよな」
「両方」
「なんだよそれ。傷つくなあ」
たいして傷ついてもいない口調で、やつは言った。海から電話をかけてきているのだろう。順の気配に重なって、雑音みたいな騒がしさがかすかに聞こえてくる。こっちでは地獄の暑さも、向こうではきっとこの炎天下さえ心地よく感じるんだろうな。
そう思ったとたん、なんだか無性に腹が立った。自分のだらし無さが招いた結果が今回の補習だということを分かっていたから、余計にそう感じたのかもしれない。気が付いた時には、なおも何か話そうとしている順を無視して、僕は電話を切ってしまっていた。
一階の食堂で缶ジュースを買い、気分転換にキャンパスをぶらぶら歩くことにした。校舎の中とは違い、ここは人影も多い。僕と同じように補修に出ている者もいれば、サークルなんかで出て来ている者もいる。きんきんに冷えたポカリのタブをあけ、芝生を横切りながら、一気に流し込む。喉元から胃の中へすとんとおさまるまでの道程が、冷たさでよく分かった。
僕が彼女を見たのは、とりあえず近くのベンチに座ろうとして周囲を見渡した、その時だった。大きなポプラの下にあるベンチで視線がぴたりと止まった。いや。正確には、そこに腰掛けていた彼女に目がいったのだった。 肩のところでぱっちりと切り揃えられた栗色の髪の毛が、風にかすかに揺れていた。年下か、しかし上にも見える。どこの学部だろう。
見たことがない。そもそもここの学生なんだろうか。ここからではよく分からなかった。その人は何をしているわけでもなく、ベンチに座ったままぼうっとしていた。たいてい下を向いていたけれど、時折顔を上げる度に、僕は慌てて違う方を向き、少し待ってはまた盗み見るようにしながら彼女を見つめた。 どうしてだろう、と不思議に思った。こんなことは初めてだ。