■ＬＯＶＥ ＰＨＡＮＴＯＭ■五章■-4
男は、口をあんぐりと開いたまま、一歩、二歩と後ろへたじろぐ。
「そんなはずはない。俺はお前を刺したのに。」
震える声で、男が小さく首を振る。
「残念だったな。心臓を刺されない限り、俺は死なないよ。」
そう言うと叶は、一瞬のうちに、脅えている男の間合いに入り、男が悲鳴を上げる暇も与えず、彼の顔面へ拳を埋めた。
男の体は、ゆっくりと後ろへ仰向けになって倒れ、その時点で勝負はついた。
叶は、倒れている二人の男にそれぞれ目をやったが、一向に起き上がってくる気配は見られない。
「叶！」
泣きながら、叶の元へ靜里が駆け寄った。ぐしゅぐしゅと、鼻水なのか、涙なのか分からないほど彼女の顔は濡れている。
叶は、笑みを浮かべながら、とりあえず靜里の目の回りを拭ってやり、自分の羽織っている黒のコートを、ぼろぼろになった靜里の洋服に重ねた。
「あ・・・。」
それはまるで、叶自身を羽織っているかのように暖かく、そして彼の匂いが靜里を包んでくれた。
「少し大きめだが、似合ってるよ。」
叶が言った。
「そ、そんなことどうでもいいよ。そのナイフどうしよう？あぁ血が出てる、病院行こう。それとも救急車がいいかな！うん！それがいい。あっそれとも。」
靜里は、叶に刺さっている短刀を目のあたりにして、完全にパニックに陥っている様子で、周りをキョロキョロ見ながら、訳の分からないことを、一人でしゃべっては一人で答えている。まさに自問自答である。
空回りする靜里を見ながら、叶は苦笑した。
「大丈夫だよ。俺はそこら辺の人間と違って強いから。」
そう言うと叶は、右胸に刺さっている短刀をゆっくりと抜いた。途中、ごりっごりっというの後、ぐちゅぐちゅっ、という音が体の中から聞こえ、それを見ながら靜里は、ごくりと固唾を呑んだ。
短刀のなくなった後の傷跡からは、まるで穴の空いた、ワインの樽の様に、とくとくと赤い血が流れ出し、靜里は、自分の両耳を押さえながら、悲鳴を上げた。
「病院行こ！早く。」
こらえ切れず、再び泣き出す靜里。
「いや、その必要はない。」
そう言うと叶は、しきりに袖を引っ張る靜里の手をほどき、彼女の目の前に、血だらけになった短刀を突き付けるように見せた。
べっとりとついた血が流れ、ゆっくりと叶の手を染めてゆく。
「それが・・どうしたの？」
血のついた短刀から目をそらし、靜里は、青い顔で叶を見上げた。
「よくこの短刀を見ていろ。」
「短刀を？」
靜里は、叶に言われた通り、おそるおそる目の前にある短刀へと視線を向けた。
ゆっくりと、叶が短刀に力を入れていくのが、指の動きによって分かる。叶の長く細い指が、小さく震え、その振動が短刀にも伝わっていく。
「叶・・何を・・・？」
靜里が言いかけた時だった。叶に握られていた短刀は、一瞬を境にその姿を変えてしまった。ぱきぱきと、彼の手に近い方からそれは、白く、冷たく、凍りついてゆき、最後には刃の先まで見事に凍りついてしまったのだ。叶は手に込められた力を抜き、それを地面へと、静かに手放した。冷たくなった短刀は、ゆっくりと、下に引かれて、落ちてゆき、芝生に触れたかと思うとばらばらに砕け散ってしまった。
靜里は自分の目を疑った。当然である。人間の手の中で、一つの物質が凍りつき、しかもそれがまるで硝子の様に割れてしまったのだから。これを自然の原理だと、何の疑いをもたない方がおかしい。
割れた短刀を見ながら靜里は言った。
「何をしたの？何で・・・凍りついて、割れたの。」
震えている声から、靜里がどれだけ動揺しているかが伺える。靜里はゆっくりと、その場にしゃがみこみ、短刀の破片を手に取った、が、
「いたい！」
と、言うとすぐにそれをほうり出してしまった。離してもなお、指の表面はひりひりと痛み、靜里はもう片方の手で痛む指を包みこんだ。