投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

僕が必ず忘れること
【純文学 その他小説】

僕が必ず忘れることの最初へ 僕が必ず忘れること 0 僕が必ず忘れること 2 僕が必ず忘れることの最後へ

僕が必ず忘れること-1

 ある種の人間に放浪癖があるように、僕の記憶にも放浪を好む傾向があるらしい。その朝、僕が眠っているあいだに記憶はカーテンをひいて家を飛び出し、青梅線から中央線に乗り換えて、きっと今頃は東京と山梨とのあいだをひたすら往復している電車の優先席で寝そべっているのだ。もちろんそうじゃないかも知れない。わりと近所の公園でブランコをこいでいる可能性だってある。でもとにかく要点だけをまとめると、記憶はその朝の時点で僕の手元にはなかったということだ。僕にとってはそれだけが重要なことである。

 あまりに頻繁に記憶をなくすせいで、僕には記憶がなくなったという事態をいち早く察知する能力が備わっていた。『あ、しまった』という調子で。どのくらいの頻度で記憶を失うのかというと、毎月の一日目がやってくるよりは控えめだが、毎月の三十一日目がやってくるよりは遥かに積極的という程度だ。年に八回か九回か、もう少し多いかもしれない。僕はいつもの通り電話のベルに起こされて(記憶をなくす日はどういうわけか必ず電話で起こされる)、それが二回鳴ったときにはすでに記憶の不在を察知していた。やれやれ。誰でもいいから記憶に繋いでおける首輪でも発明してくれたら助かるのに。

「もしもし」

 と受話器から女の声が聞こえた。当然のことだけど、その声に聞き覚えなんてなかった。さぁどうしたものか。

「もしもし」

 と返事をした。僕のように記憶を失うことに慣れている人間なら、これくらいの返事は自然に出てくる。普通の人にはたぶん無理だ。なぜなら普通の人は記憶を失いさえしない。

「寝てた?」、と女は言う。
「うん。今起きた」、と返す。
「きっと起こしちゃったね」
「どうせ起きるつもりでいたから」
「ちょっと申し訳のない話になるんだけど」
「聞くよ」

 僕は女の声から、その声の持ち主の姿を想像してみる。たぶん三十歳よりは下だろう。二十八歳か、二十九か? その辺はわからない。しかしとりいそぎロングヘアーであることは断言できる。ゆるいパーマをあてていて、耳のあたりから肩甲骨の下にかけて大きく育ち過ぎたひょうたんみたいな伸び方をしている。化粧は、下手ではないがやや濃い。僕としてはもう少し控えめなほうが好みだ。でもライトベージュのビジネス・スーツはよく似合っている。脚も綺麗だし、スカート丈の長さまで申し分ない。

「もちろんあなたの貴重な休日をこっちの都合で奪い取るというのは、ひどいことだと思うわ」

 と女は突然、早口に切り出す。

 僕は少し考える。しかしあまりに唐突な切り出し方に困惑する。「うん?」
 出来の悪い料理にかぶせた蓋を取るみたいな、申し訳なさげで妙な間が空く。「本当に、人が足りないの」
「休日出勤しろってこと?」
「申し訳ないけれど」

 僕は話の筋をだいたい掴む。たぶん彼女は僕の同僚か何かで、そして彼女は今ひどく人手の足りない状況に置かれていて、それで僕のところへ電話をかけてきたのだ。なるほどね。


僕が必ず忘れることの最初へ 僕が必ず忘れること 0 僕が必ず忘れること 2 僕が必ず忘れることの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前